らないくらゐの会社員のKが雑誌を持つて坐つてゐた。
 Kは雑誌を爪《つま》さぐりながら、頷《あご》で向うを指し示して、
「そこに立つてゐましたらう?」
「あ、女ですか?」
「さうです……あれは大連《たいれん》でも売《う》れ妓《こ》でしたんですがね?」
「御存じですか?」
「え、二三度……。何でも大きな油房《ゆばう》か何かを持つてゐる人の持ものだつてきいてゐましたがね? 何うして天津になんか行くんですかな?」
「もうあつちに行つたきりなんですか。何か用事でもあつて行くんぢやないんですか?」
「行つたきりださうです? さつきちよつときいたら、さう言つてゐました……」
「無論いろいろなことがあるんでせう?」
「割合に評判のわるくない妓《はう》でしたんですけど……矢張、あゝいふ人には、わるい虫がつきやすいですからな」
「何うもしやうがありませんな。矢張、女だつて、何うかしてひとりをしつかりつかまうとしますからな」
「本当ですよ。あゝいふ社会でも存外さうですな」
「浮気な稼業だけに猶ほさうですよ。そして、あの女にもさういふ虫がついてゐるんですか?」
「いやさういふわけぢやないでせうけども――私はさう深く知つてゐるわけでもないんですけども」
「何《なに》つていふんです?」
「名ですか? 徳子《とくこ》です」
「それでも、大連にも随分好い芸者がゐますか?」
「私なんかにはよくわかりませんけれど、随分好いのがゐるやうです?」
「あなた方の仲間にも随分遊ぶものがありますか?」
「駄目ですな。まだ巣立つたばかりですから……。もう少し経てば、さういふことも出来ますが、今では――」
「お子さんがあるんでせう?」
「え、二人あります――」
 BにはKの生活もはつきりとわかつて来たやうな気がした。大きい子の方を若い父親が抱いて寝る時代のことをBは繰返した。続いて三人目の女の児が出来た時分から、嵐のやうな愛慾の中に突進して行つたその生活を繰返した。Bは昨夜《ゆうべ》もある宴会から達《た》つて戻つて来ようとすると、「好いぢやありませんか。一体あなたはそんな方ぢやなかつた筈ですがな。何んなところへでも入つて行く方だとばかり思つてゐましたがな? 何うしたんです? 一体?」かうその人達が言ふので、戯談《じやうだん》のやうにしてそれを外《はづ》して、「だつて君、一刻も忘れずに待つてゐる人がゐるんだからね。
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