次第に私は笑へなくなつた。私はそこに人生を感じた。恋を感じた。Sさんのさびしさを感じた。その前生《ぜんせい》を白粉と丸髷で塗りかくして、さうして温泉に出懸けて行く女のさびしさを感じた。また新しい女を得た喜悦《よろこび》はあるにしても、妻を他に奪はれた男の心の佗しさを感じた。汽車は明るい車室の連続を長蛇のやうにあたりを際立たせて、闇の中を、荒凉とした満洲の野の闇の中を轟々として走つて行つてゐたが、しかも私はその中に更にくつきりとその大きな丸髷を見せて終夜一睡もせずに起きてゐるその女を見た。

         三

 徐《しづ》かに夜は明けて来た。私は車窓の明るくなつて来るのを感じた。曠《ひろ》い野に銀のやうな霧が茫とかゝつて、山も丘もぼんやりとぼかしのやうに空に彫られてあるのを私は感じた。それにしても何といふ静かさだつたらう。何といふ穏かさだつたらう? これはとても内地などでは見たり感じたりすることの出来ないものであつた。また満洲でも、五月の末から六月の初めでなければ見ることの出来ないものであつた。露はしつとりと草や木の緑の上に置いた。秋のやうに深く濃《こま》やかに置いた。汽車はさうし
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