アカシヤの花
田山録弥

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)長春《ちやうしゆん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)独身|者《もの》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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         一

 たしか長春《ちやうしゆん》ホテルであつたと思ふ。私はその女の話をBから聞いた。しかし、それはその女を主としての話ではなしに、その長春の事務所長をしてゐるS氏の話が出た時に、Bは画家らしいのんきな調子で、莞爾《にこ/\》と笑ひながら言つたのであつた。「君、Sさんは、あゝいふ風に堅い顔をしてゐるけれどもね。あれで中々隅に置けないんですよ」
「さうかね?」かう言つた私には、五十近い、それでゐて非常に若くつくつてゐる、頭髪を綺麗にわけたS氏の顔が浮んだ。
「つい、此間まで、大連の本社で庶務課長をしてゐたんだがね?」
「庶務課長! Sさんが――? それぢや、今、Y氏がやつてゐる役だね?」
「さうだ。あ、君もあそこに行つて見ましたね。S氏はあそこについ半年ほど前までゐたんですよ。そのあとに、今のY氏が行つたんですよ」
「庶務課長から此処の事務所長では、左遷ですね?」
「まア、さういふわけですね。S氏も好い人ですけれどもね。それは親切で、趣味が深くつて、絵のこともわかるし、僕などには非常にいゝ人なんですけれどね――」Bは少し途切れて、「それ、君、庶務課に行くと、あの室《へや》の隅にタイピストがあるでせう?」
「え……」
「あの今ゐる女ぢやないですけれどもね。Sさんは、そのタイピストを可愛がつてね。たうとう孕《はら》ませて了つたもんですからね?」
「ふむ?」と私はいくらか眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》るやうにして、「あゝいふところにもさういふことがあるのかね? ふむ? 面白いね? つまり、さうすると、今ゐる女の前にゐた女をやつたわけですね?」
「さうですよ」
「さうかな……。さういふことが沢山あるんですかね?」
 かう言つた私の眼には、その大きな石造《せきざう》の建物の中の一室――卓《テイブル》を二脚も三脚も並べた、電話の絶えず聞えて来る、クツシヨンの椅子の置いてある、その向うに後姿を見せてタイピストがカチカチやつてゐる一室のさまがはつきりと浮んだ。
「それで何うしたね? 今では囲つてでもあるのかね」
「いや、本社から此方《こつち》に来る時、すつかり解決をつけて来たらしいね。何でも、もう女も子供を産んだとか言つた――」
「よく早く解決が出来たね?」
「だつて、困るからなア――」Bは笑つて、
「そこに行くと、あゝいふ人達は、金があるから、何うにでもなる……」
「さうかな――」
 私はじつと考へに沈んだ。思ひがけない人生の一事実といふことではなかつたけれども、一種不思議な心持を私は感じた。「ふむ!」と言つて私はまた頭を振つた。
「それでその女は別品《べつぴん》かね?」
「ちよつと色が白いだけですよ」かう言つてBは笑つた。

         二

 それだけでそのことはすつかり忘れてゐた。
 私とBとはハルピンに行き、蒙古に行き、吉林《きちりん》に行き、それから引返してもう一度大連へと戻つて来たが、そこに三四日ゐて、今度は本社の人達にも別れを告げて、朝鮮から帰国の途に就かうとしてゐた。Bも安東《あんとう》まで送つて行かうと言つて、一緒に夜の十時の汽車に乗らうとした。
 直行なら六時のもあつたのであるけれども、熊岳城《ゆうがくじやう》の温泉を素通りにするのは惜しいので、一度そこで下りやうと言ふので、それでわざわざその汽車を選んだのであるが、割合に混雑してゐて、プラツトフオムは乗客やら見送人やらで一杯になつてゐた。「いやに込むぢやないか? 誰か大官《だいくわん》でも立つのかね?」見送に来て呉れた本社の人達もそんなことを言つてゐたが、ふと私は私の前に夜目にもそれとわかるほど白粉《おしろい》をつけて盛装してゐる大きな丸髷の美しい女を見た。一緒に伴れ立つた背の高い背広の外套の男は、ソフトをかぶつて、大きな鞄などを持つてゐた。
 突然、Bは小声で私に囁いた。
「来てるよ、君……」
「え?」
 何が来てゐるのか私にはさつぱりわからなかつた。
「え――……?」
 私は繰返して問うた。
 Bは今度は私の耳に口を寄せて、向うを顎で指すやうにして、「そら? いつか言つた? Sさんの?」
「あ、さう――?」多分その女……そのS氏の子供を生んだ女だらうとは思つたが、大丸髷に結つてゐる上に、傍《そば》に伴れの男がゐるので、いくらか腑に落ちないやうな気分を私は持
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