つた。汽車はまだそこにはやつて来てゐなかつた。電灯の光の微かにさしわたつてゐるプラツトフオムのところには、大勢の人達が混雑して、その他にも二人づれの男女達が三組も四組もあつた。「この汽車は温泉行きには便利だからね。何うしてもペエアが多いね?」こんなことを見送つて来た本社の社員のひとりが言つた。やがて明るい電灯に車内を照させた汽車が静かにレエルを滑るやうにして入つて来た。
 皆なが先を争つて乗つた。
 私達も座席を取るため、旅鞄を持込むために慌てたりして、暫しはそのことを忘れてゐたが、ふと気が附くと、Bはその女の背の高い男と何となくそぐはないやうな変なギコチない挨拶をしてゐた。暫くしてから、私達は食堂へと行つた。
「驚いた! 驚いた! えらいことがあるもんだな?」
 Bは卓につくといきなり言つた。
「何うしたんだ!」
「あの女があいつの嚊《かゝあ》になるとは思はなかつたな?」
「あれが、それ、S氏の子供を生んだ女だツて言ふんだらう?」
「さうです――」Bは哄笑して、「あは、は、思ひがけないことがあるもんだな? 新婚旅行ですよ。我々と一緒に熊岳城で下りるんですぜ!」
「君は知つてゐるのかえ? あの男を?」
「知つてゐますとも――あれは君、僕等と同じく刷毛《はけ》や絵具を弄《いぢ》る奴ですよ」
「へえ?」私は驚いたが、「だつて、本社には君だけぢやないんですか、刷毛を持つものは?」
「あれは、君、旅客課の慰藉掛と言つてね、満洲に来て働いてゐる若い青年達に画を教へるために、本社から嘱託されてゐる男なんですよ。……僕等は別に交際もしてゐないから、詳しいことは知りませんけれどもね、何でも、つい一月《ひとつき》ほど前に、細君が情夫《をとこ》と遁げて、先生、えらく失望してゐるといふ話でしたよ。それが何うでせう? もうちやんとあゝいふ風に出来上つたんですからな。君、世の中は、何も心配することはないといふ気がしますね?」
「大いに祝すべしぢやないか? 君、二人とも新しい生活に入つたんだもの…………」
「それはさうですよ」
 Bはまた哄笑した。
「これから二人して、真面目《まじめ》に新しいライフに入らうと云ふんだ。大いに祝して好いさ。…………しかし、それにしてもひよんなところに出会《でつくわ》したもんだな。向うではえらい奴と一緒になつたと思つてゐるだらう?」こんなことを私は言つた。しかし、次第に私は笑へなくなつた。私はそこに人生を感じた。恋を感じた。Sさんのさびしさを感じた。その前生《ぜんせい》を白粉と丸髷で塗りかくして、さうして温泉に出懸けて行く女のさびしさを感じた。また新しい女を得た喜悦《よろこび》はあるにしても、妻を他に奪はれた男の心の佗しさを感じた。汽車は明るい車室の連続を長蛇のやうにあたりを際立たせて、闇の中を、荒凉とした満洲の野の闇の中を轟々として走つて行つてゐたが、しかも私はその中に更にくつきりとその大きな丸髷を見せて終夜一睡もせずに起きてゐるその女を見た。

         三

 徐《しづ》かに夜は明けて来た。私は車窓の明るくなつて来るのを感じた。曠《ひろ》い野に銀のやうな霧が茫とかゝつて、山も丘もぼんやりとぼかしのやうに空に彫られてあるのを私は感じた。それにしても何といふ静かさだつたらう。何といふ穏かさだつたらう? これはとても内地などでは見たり感じたりすることの出来ないものであつた。また満洲でも、五月の末から六月の初めでなければ見ることの出来ないものであつた。露はしつとりと草や木の緑の上に置いた。秋のやうに深く濃《こま》やかに置いた。汽車はさうした静けさの中を驀地《まつしぐら》に走つた。
 その黎明《しのゝめ》の茫とした夢のやうな空気の中に、最初の私の発見した停車場《ていしやぢやう》の名は白い板に万家嶺《まんかれい》 Wan−chia−ling と書いてある字であつた。「お、もう万家嶺だ! もうあと二つしきやない」かう思つた私は身を起した。その時にもその大きな丸髷は暁の光の雑《まざ》つた灯《ひ》の中にくつきりとあらはれて見えてゐた。[#「見えてゐた。」は底本では「見えゐた。」]
「おい、君、もう熊岳城だよ」九寨駅を通り過ぎてから、私はBを揺り起した。「もうさうかね?」とBは言つていきなり身を起した。車窓の外には霧が白く流れた。「好いな? 朝は?」
 Bは画家らしくあたり見廻したが、小声で、「先生、終夜《よつぴて》、あゝして起きてゐたね」と囁いた。
 私も笑つて見せた。
 大連を立つて来る時には温泉行きの二人連が幾組かゐたが、皆な湯崗子《ゆかうし》行きだと見えて、そこで下りたのは私達とその二人と他に二三人の旅客があるだけであつた。私達は大きな鞄を一時預けにしたりして、いくらか手間取つてゐる間に、その二人は逸早く苦力《くーりー》に
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