、その向うに後姿を見せてタイピストがカチカチやつてゐる一室のさまがはつきりと浮んだ。
「それで何うしたね? 今では囲つてでもあるのかね」
「いや、本社から此方《こつち》に来る時、すつかり解決をつけて来たらしいね。何でも、もう女も子供を産んだとか言つた――」
「よく早く解決が出来たね?」
「だつて、困るからなア――」Bは笑つて、
「そこに行くと、あゝいふ人達は、金があるから、何うにでもなる……」
「さうかな――」
 私はじつと考へに沈んだ。思ひがけない人生の一事実といふことではなかつたけれども、一種不思議な心持を私は感じた。「ふむ!」と言つて私はまた頭を振つた。
「それでその女は別品《べつぴん》かね?」
「ちよつと色が白いだけですよ」かう言つてBは笑つた。

         二

 それだけでそのことはすつかり忘れてゐた。
 私とBとはハルピンに行き、蒙古に行き、吉林《きちりん》に行き、それから引返してもう一度大連へと戻つて来たが、そこに三四日ゐて、今度は本社の人達にも別れを告げて、朝鮮から帰国の途に就かうとしてゐた。Bも安東《あんとう》まで送つて行かうと言つて、一緒に夜の十時の汽車に乗らうとした。
 直行なら六時のもあつたのであるけれども、熊岳城《ゆうがくじやう》の温泉を素通りにするのは惜しいので、一度そこで下りやうと言ふので、それでわざわざその汽車を選んだのであるが、割合に混雑してゐて、プラツトフオムは乗客やら見送人やらで一杯になつてゐた。「いやに込むぢやないか? 誰か大官《だいくわん》でも立つのかね?」見送に来て呉れた本社の人達もそんなことを言つてゐたが、ふと私は私の前に夜目にもそれとわかるほど白粉《おしろい》をつけて盛装してゐる大きな丸髷の美しい女を見た。一緒に伴れ立つた背の高い背広の外套の男は、ソフトをかぶつて、大きな鞄などを持つてゐた。
 突然、Bは小声で私に囁いた。
「来てるよ、君……」
「え?」
 何が来てゐるのか私にはさつぱりわからなかつた。
「え――……?」
 私は繰返して問うた。
 Bは今度は私の耳に口を寄せて、向うを顎で指すやうにして、「そら? いつか言つた? Sさんの?」
「あ、さう――?」多分その女……そのS氏の子供を生んだ女だらうとは思つたが、大丸髷に結つてゐる上に、傍《そば》に伴れの男がゐるので、いくらか腑に落ちないやうな気分を私は持
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