りだとするならば、それは畢竟何物かに囚われて、進歩性を欠いた、そして小成に安んじてるものであって、問題になるほどのものでない芸術であると見なければならない。さらに重ねていえば日々新たなる心境の活動を喪失してしまっているものであって、芸術上大切な生命の大部分は、悲しくも囚われるの一事に奪われている病芸術といわねばならない。いわば虫に喰われている樹木に等しく育つべくもない。これを良寛様の書に見るとき、良寛様の書は、殿下の御言葉のごとく「その時々」の心境、感情の動きで生まれ出た書であるということが認められる。すなおになんらの囚われなく、日々新たにして、停滞のない実際から来るその生活心情が窺われるのである。
 されば良寛様の書は、世間並みの坊さんのように坊さん臭いというところのものがない。とかく坊さんの書には、坊さん型ともいうもののあるのが通例であって、それが名僧と凡僧とを問わず、一見坊さんの書であるという特色は誰の眼にも映って来るものである。そのはなはだしい悪例は黄檗の書である。黄檗の書はまことに俗健そのものであって、雅美風流には貧弱である。それは黄檗の坊さんたちが、芸術的生活に悟るところが
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