ると良寛様の書中には危な気というものがなく、安んじて鑑賞を恣にすることが出来てわれわれを救ってくれる。もし危な気があるものありとしたならば、それは私の知るかぎり偽筆であることの証左である。
しかも良寛様の書は、例えそれが晩年作にしても、さまざまな書技のさばきがあり、ときどき心境の異変的開きがあって縦横自在の変化を見せて、かりそめにも一つや二つのよりどころに膠着するところがない。
恐れ多い話ではあるが、書道においても一世の卓抜的大家であらせちれた、故久邇宮邦彦王殿下に対し奉り、ある時のこと、御用係某は、殿下御染筆の数々のうち取り分け法隆寺に御下賜のものの御出来栄えが、一段に御見事に拝される旨を言上した。すると、殿下は言下に「書はその時々でいろいろである」と明白に仰せられた。これはたしかに芸術的御名言であった。私もその座に居合わせたこととて、親しくこれを承り、感激に禁えなかった次第である。が、実にすべての芸術は「その時々でいろいろである」ようでなければ、その作品は生きてものいうことにはならない。技術も内容も膠着して、いつも判で捺したごとく、なんらの変化のない、畸形的死作の連続があるばか
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