相似たところがあるとしても内容には雲泥の相違がある。法帖で見るところの懐素の書は、まず第一に描線の運行が、素直なものではない。世間から上手といわるる書家の書にあり勝な、作り線であるかに見ゆるものである。それかあらぬか、力のかぎりを尽してその上に背伸びまでしているところがある。見よとばかりの努力で出来た草書ではあろうが、著しい天才が生んだ自然的な美しい素直な草書ではない。同じ好き心から生れ出た書であるとしても、良寛様のそれは元来が超俗非凡な天才的霊腕の仕業のこととて、魅力の上に天地霄壌の差を生じている。
由来一般に中国人は概して書がうまいといわれているが、私どもが心から感服するというものは、なんといっても王義之であり、その前後の類品である。その以後に気の利いたものを拾えば唐太宗である。含蓄あるものを求むるとせば顔魯公である。良寛様はその書の長所をこの辺から採っておられるからである。明代など眼もくれていられないのは眼に見えるようである。しかし、その良寛様も安田画伯のいわれる老成以前の書と、晩年とでは大変な相違がある。私は晩年あるいは晩年に近い御作をとって、良寛様の価値と見ている。それによ
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