反映しているものである。良寛様の書の価値は、とりもなおさず良寛様の人格の価値であると断じて万間違いはない。世に人格以上とか、人格以外とかの書というものなどあり得るものではないからである。そのうまさにおいて、その美術としての美しさにおいて、あるいはいやらしい作りものではないという点において、良寛様の書は、まったく良寛様の美しい人格によりて生れ出たものなのであることを、つくづく思わされる。その一つ一つに検討して見るまでもなく、良寛様は美術的に鑑賞力の高い人であったことが作品によって想像するに充分である。古法帖の見方にしても、一番いいものの中から、一番いいところばかりを見ておられる。一例を草露貫珠に見てみても、やっぱり羲之型であり、韻会型であって、内容もそれらの重厚である。そこへ、日本の上代的書道の内容の味が加わっている。良寛様の書は形がよい。味がよい。美的である。風雅であるというゆえんはそこにあるのである。懐素の書が、いつも引き合いに出されるが、私どもの今までに見た懐素というものは、あえて感心するほどのものではなく、むしろあの時代では俗書に属する方ではないかと考えている。仮に良寛様の書風に
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