り売らん哉であろうはずもなく、好きと心の身嗜みで進暢が計られたものに違いない。見て欲しさ、買って貰いたさの手伝ったもの、それはなんとしても、力一ぱいが尽された上に、なお無理矢理、背伸びして高さを誇るのが世の常である。しかるに俗欲のすべてに未練を断たれた良寛様は、書道を研く上にも世俗の誰もが得て持つところの腕を売るの欲などは持たなかった跡が歴然と表示されている。しかし好きの点では人一倍ただならぬまでに好き者であったに違いない。
かくまで書道を純真に芸術的に理解することが出来て、大所高所からそれを見下すことの出来るということは書道を愛好するものの最大理想である。その超邁な見識とその真摯なる態度から生まれた良寛様の書は、徳川末期における一大奇蹟である。実に良寛様の芸術的態度と見識は、これまったく良能の革新者のみがもつ新思想であって、敬服に堪えざるところである。誰にしても口先ではなんのかのというものの、実際型に囚われないということは、まず出来ない相談と見てよい。僧侶は僧侶型、学者は学者型、武人は武人型と底を割って見れば大体は自分の職業守護から、その型に入りやすく型を護ることの当然であることを自認しているのが常識である。それに背くことはいわゆる型破り者として、世間の迎うるところとはならない。よほどの信念と勇気あるにあらざれば型破りの離れ業は出来得るものではない。例えば木菴の弟子に良寛様のような態度の者があったとしたならば、それは必ず異端者としてか、あるいは意気地なしとしての取り扱いを受けねばすむまい。型破りをいえば西行法師の書も僧侶型ではない。穏健に通常万人の字が書かれている。
太閤様の字なども当時よく見るところの将軍型ではない。きわめて自由な、芸術的、美術的なものであって、太閤の前に太閤の書なし、太閤の後に太閤の書なしと、叫んでもさしつかえないまでに創作的雅美に富んだ自由型である。
これらはいずれも一代の勇者であり、信念の天才人であったからであろうが、また考え方では西行様が鎌倉時代において、あの字を書かれていることには別段不思議はない。鎌倉時代というものはまだまだなにかに調子高い芸術の生まれた時代である。西行様一人が特によい字を書かれたのではない。むしろさらにさらにその上手を行った字もあったようである。西行様の字は良寛様のように一大天才であるというのではなかろう。良寛
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