芸術を見るに、最初は中国であるが、最後はいつも日本である。常にお体裁を作るのが中国民族の仕事となっており、それに味を持たせ、もの柔かくこなし、表面のお体裁に加うるに底力に重点をおき、魂を確と入れて生きたものにするのは、日本民族の仕事となっている。されば、お体裁のいかんにかかわらず、日本人の芸術には魅力があり、雅味があり、品調が高い、が特色である。
 書道も唐以前はしばらくおき、その以後なるものは、見るべき芸術は日本に続発はするが、中国には生まれない。黄檗が俗健をもって横行している時代にさえ、大徳寺には春屋禅師のような上品な、至純な、非凡的能筆が生まれており、江月和尚のように味と見識を兼備えた調子のいや高いものも存在している。私は良寛様の書道が一方的な型趣味に囚われないこと、すなわち僧侶型に偏するところなく、自由の見解から芸術書道を研究し、それを自己の趣味とされた点を語らんとしたのであったが、不覚にもだんだんと他事におよび、なにを語り、なにを説いているかさえ自分自身に判然し難くなって来た。しかし、考えて見ると唐以後の中国人は概して書道を悪悟りしている。殊に日本に渡来した黄檗の坊さんたちはまったく書道芸術の大本を解するところがなく、まったく悪悟りして外道を歩んでいる。……これらが申したかったのである。それは、今もなお黄檗の書なるものを良能の書ででもあるかに、大切珍重する人々の存していることを、心から歎かわしく思う老娑心からである。こんなふうに、これらを見る私らは、弥々良寛様の見識に頭が下るものであることを申したかったのである。大抵の者では囚われずにはいない。時流というものに敢然囚われず、身みずから僧をもって任じつつも、僧侶型に顧念せず、凡百の能書に最高所を採り、二流的妙品にはいささかも眼をくれず、一意最高書道に向かって進暢を計るかに見ゆるその態度と卓見は、徳川期の何人にこれを求むるも比類ないところである。これあってこそ良寛様の能書が世に高く遺ったわけであることは当然である。
 いくら卓見であっても、腕の天才に恵まれずしては叶わないものであるが、それが幸いにも良寛様には恵まれていた。しかし、いくら恵まれていても習字になまけ者であっては、かくまでの妙技は振えなかったであろうが、その努力癖もまた兼備されていた。しかも、それが誇り気に見せびらかすためでないことはもちろん、もとよ
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