りだとするならば、それは畢竟何物かに囚われて、進歩性を欠いた、そして小成に安んじてるものであって、問題になるほどのものでない芸術であると見なければならない。さらに重ねていえば日々新たなる心境の活動を喪失してしまっているものであって、芸術上大切な生命の大部分は、悲しくも囚われるの一事に奪われている病芸術といわねばならない。いわば虫に喰われている樹木に等しく育つべくもない。これを良寛様の書に見るとき、良寛様の書は、殿下の御言葉のごとく「その時々」の心境、感情の動きで生まれ出た書であるということが認められる。すなおになんらの囚われなく、日々新たにして、停滞のない実際から来るその生活心情が窺われるのである。
されば良寛様の書は、世間並みの坊さんのように坊さん臭いというところのものがない。とかく坊さんの書には、坊さん型ともいうもののあるのが通例であって、それが名僧と凡僧とを問わず、一見坊さんの書であるという特色は誰の眼にも映って来るものである。そのはなはだしい悪例は黄檗の書である。黄檗の書はまことに俗健そのものであって、雅美風流には貧弱である。それは黄檗の坊さんたちが、芸術的生活に悟るところがないためであると見るべきであるが、それら坊さんたちの料簡にして見れば、いやしくも黄檗山に僧たるほどの者、かくかくの書風、かくかくの特色を発揮せずばとの因襲的囚われがあるからであろう。それが私どもの眼には、手に採るように受け取れるのである。芸術の本義を悟り得ないで漫然となぜそんなところに囚われているのかを問うたらば、それはいうまでもなく、ただもう職場を守る……で説明は尽きるであろう。
その職場を守るには、宗教上大乗的に、そぐわない大矛盾そのものが潜んでいよう。そんなこんなが聚るところに、眉をひそめねばならぬものが次々と生じ、そこに俗健の大量販売は当然に生まれて来るのである。それならば流派、宗派に囚われるものは、必ず俗道に堕落し、必ず俗書を生むかといえば、さようにばかりもいえないのである。それは黄檗当初における大徳寺派の僧侶中には黄檗に見るような俗健は一人として見うけられない事実がある。とにかく囚われるということは伝統的にイデオロギーが違うにもよろうし、そこに集合する人々の人品骨柄が類を呼ぶ的に異っているせいもあろう。特に相違する点は、中国人と日本人との民族の開きである。
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