様から見ては多少の艶も見られる。しかし、身嗜みから学ばれている点においては良寛様と同じ態度の書家であると申されようか。それはとにかく私が良寛様の出現に驚異を感ずるものは、徳川末期であるということである。徳川末期は芸術のなさけないまでにしなびてしまった時であって、きわめて低調な書画彫刻をもって充たされ、鑑賞力もいやが上に低落し、江戸前的民衆芸術に浮身をやつし、書道のごとき桃山期まではとにかくも本格的に踏み止っていたものが、徳川からは根幹を失い枝葉へ、末節へとひた走りに走り、正体なく貫禄を落してしまった時である。かくのごとき末世的時代にあって、わずかにたった一人の良寛様が、敢然古の本格に道を撰んで歩まれたのであるから、私は良寛様の特異的善書を口をきわめて称え立てないではおられないのである。
 私は良寛様が自分の親類とか縁者ででもあったらと考えることさえある。さればといって、私は良寛様の字をそのまま真似て見ようなどと思う者ではない。それはあまりに恥かしい仕業であると思うからである。良寛様の書風、すなわち形貌だけを手先に任せて、内容のなに一つを持ち合さない私が自分へ移植して見たところで、それは所詮声色使いか、造花師の職技に過ぎないと考えるからである。一夜造りの付焼刃、これは良寛信者としては、その神聖の冒涜でもあるであろう。こんな理由のもとに私は良寛風を慎んではいるが、それでも時に良寛様の晩年作を目前にする場合、ついその魅力に引きつけられ、臨書して見たい気持になる。そして一度でも臨書すると、当座はなんとなく良寛風の書にかぶれてゆくものである。
 近来は良寛様風の字を書く人々が画家仲間などに大分殖えて来たようであるが、その多くは良寛様の内容に触れているところのものはきわめて少なく、書風の特色にのみ興味を感じての振舞であるようで、その狙いは良寛様の気の利いた肉細描線の動き塩梅にあるようである。良寛様の書は懐素のような才技肌ではない。義之の書に理解の深かった唐太宗一流のまことにこなれきった鋭さ、およびそのいかにも気の利きたる筆の運行に共通し、しかも根本は義之の非凡に学ぶところが認められるのである。世の模倣家はこの中の現代離れの風体に興味を覚えるようである。が……本ものの良寛様というのは猪口才ではない。日本の書では秋萩帖が手本に取り入れられている。上代文字に対する関心の尋常ならぬこと
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