も察せられる。良寛様に近い年代に、美術的、芸術的に著しき作品を遺したものは大雅である。その大雅も真面目に書かれた細字は、十分良寛様と共通するものであるのであるが、ともすると遊戯にふけりたがる大雅は、書道を自己の手すさびのおもちゃにしすぎて、豊饒な天性の技能をいたずらに浪費する癖があり、真摯そのもののみである良寛様とはイデオロギーを異にする。
 さらば良寛様の道の伴侶を何人に見出すべきかということであるが、私はまず大徳寺の春屋禅師を推すべきであると思っている。美的価値を問う時においては、それを弥々力説するものである。良寛様の書において今一つ注目されることは、童児の手習いに見る稚拙そのものの含有である。
 無邪気な子供の手になる手習、それは必ず良寛様の関心を呼ばないではいなかったであろう。それが良寛様の書の上に影響していることは察するに難くない。しかし、一千年前を目標として、当時の能書を師範として学び尽した良寛様、ゆくところまで行きついた良寛様、いわゆる名手になりきった良寛様は、今さら子供の稚拙そのままにくだけてゆくことは出来なかったようではあるが、それでも晩年の細楷には童年書家の影響を物語るものがありありと窺えるのである。名手の外皮に童技童心を包蔵していることは明瞭である。
 元来、良寛様は相当圭角のある人であるようである。とても聞かん気に充ちた人であるかと思われる筋の見えるものがある。それが修養によりにわかに円熟に進まれたものであろうと思うのである。そのことはその墨跡の数点が物語るところである。なかにはずいぶん権柄ずくな調子のものもあって、私はそれをひしひし感じる。時と対手によっての感情の動きが眼に見えるようである。しかし概して晩年作は、円満にこなれきっている。それは世間欲がだんだんに清掃されていった証拠であると見てよいのではないか。
 畢竟は外柔内剛の完成である。すべてよき芸術は、外柔内剛と決っているからである。これに反しよからぬ芸術は大抵外剛内柔である。前者は雅美に富み、後者は俗雅に走っている。いずれにしてもこの世の欲を捨てきった不思議な人格と、専門家にも見難き技能を兼ね、しかも持って生れた雅と美の要素をその書に盛りつけてつつましく見参した良寛様の書のごときは、少なくとも徳川時代における驚異であって、他に一人たりとも書道行道において相似たものはなかったはずである
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