名技として尊敬の的《まと》にはならない。要は書家の書だからいけないのではない。大根役者の芝居だからいけないのだ。
しかし、われわれの生活には芝居をしなければならない場合は非常に多い。広く世人と交際する公的生活においては、いわずもがなのことではあるが、芝居の必要のないと思われる私生活にあっても、芝居気がまったくないかというとそうではない。
例えば親子の間柄もそうである。父は子に対して友人と対する時とはおのずから異なった態度をもってせねばならぬ。すなわち、父親らしい振舞いを必要とする。赤裸々な人間として、わが子に対することはできない。
まったく芝居を必要としない社会というものは、よほど山奥の集落にでも行かねば存在しないと思われる。しからば、この芝居は芝居だからいけないかというとそうではない。ただそれがまずい芝居であっては、父として子を訓育することも、子供によい影響を与えることもできない。ましてわが子に対し、友人に対すると同じような、間違った芝居をするならば、それは、なおさらよろしくあるまい。わが子に対しても、われわれは親として名優となることが必要だということがわかる。
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