騙《だま》しているからだ。譬えていうならば、家庭料理は料理というものにおける真実の人生であり、料理屋の料理は見かけだけの芝居だということである。
これは芝居であるばかりでなく、程度の低い社会を歩むには芝居でなければならないのである。しかるに料理屋の料理を一般にいけないというのは、この芝居が多くの場合デモ芝居だからである。この芝居を演ずる料理人が大根役者であって、名優でないからである。今日、何々フランス料理、茶料理、懐石などを看板にして誇張するものは、現実に非難されもするが喜ばれているものもある。
料理屋の料理が家庭料理であってはいけないといったが、それは客が承知しないからだ。これはあたかも実際生活における行為と、芝居において演ずる所作とが同じであってはならないのとまったく軌を一にする。
試みに、夫婦|喧嘩《げんか》の芝居を舞台にかける場合を考えてみるとよい。もしある役者が、実際の人生に行われる掴み合いの夫婦喧嘩を見ていて、それを、その通り舞台上で演じたとするならば、怒号している言葉が、かえって冗談でもいっているように聞こえてきて、悲劇である場面が滑稽《こっけい》に見えるであろう。
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