味覚馬鹿
北大路魯山人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)美味《うま》い
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)存外|玄人《くろうと》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しろもの[#「しろもの」に傍点]
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美味《うま》い不味《まず》いは栄養価を立証する。
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天然の味に優《まさ》る美味なし。
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現今《げんこん》の料理は美趣味が欠如している。
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料理つくるも年齢、食う好みも年齢。
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料理をつくる者は、つとめて価値ある食器に関心を有すべし。
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高級食器、美器をつくらんとするものは、美食に通ずべし。
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栄養価値充分にして美味にあらざるものは断じてない。美味なれば必ず栄養が存する。
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味覚は体験に学ぶ以外に道はない。良体験をもったものは、よい料理ができ、よい味覚がそなわり、幸せであり、美味いもの食いの資格が高い。
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現在、純日本料理はないであろう。
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料理を味わうにも、三等生活、二等生活、一等生活、特等生活と、運命的に与えられている生活がある。またそれに従って作るところの料理がさまざまである。
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貧乏国になった日本料理、それが生んだ料理研究家の料理、毎日ラジオ、テレビで発表されている料理。これが貧乏国日本の生んだ料理研究であり、栄養料理の考えである。
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一顰一笑《いっぴんいっしょう》によって愛嬌《あいきょう》をまき、米を得んとする料理研究家がテレビに現われて、一途《いちず》に料理を低下させ、無駄《むだ》な浪費を自慢して、低級に生きぬかんとする風潮がつのりつつある。
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もともと日本料理の中で生まれたわけではないから、現今《げんこん》のごとく低級の谷へ谷へと下降しつつある。このあり様《さま》は見るに忍びない。内容の重きに注意せざる者は、勢い外表のデザインのみに走る。
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要求する食物に不味《まず》いものなしだから腹が空《へ》るにかぎる。
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うかうかと元味を破壊して、現代人は美味《うま》いものを食いそこなっている。
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手をかけなくても栄養も摂《と》れ、美味でもあり、見た目も美しいものを、いたずらに子供を騙《だま》すような料理をつくることは、料理人の無恥《むち》を物語るものであろう。
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日本料理といっても、一概《いちがい》にこれが日本料理だと簡単にいい切れるものではない。いい切った後から、とやかくと問題が起こり、水掛《みずかけ》論が長びき、焦点がぼけてしまうのが常だからだ。昔もそうだが、近頃ではなお更《さら》である。
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日本人が常に刺身《さしみ》を愛し、常食するゆえんは、自然の味、天然の味、すなわち加工の味以上に尊重するところである、と私は思っている。
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すべて本来の持ち味をこわさないことが料理の要訣《ようけつ》である。これができれば俯仰《ふぎょう》天地《てんち》に愧《は》ずるなき料理人であり、これ以上はないともいえる。
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次が美の問題である。
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料理も美味《うま》い物好き、よい物好き、なにかと上物《じょうもの》好き、いわばぜいたく者であってこそ、筋の通った料理が生まれるのである。
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味に自信なき者は料理に無駄《むだ》な手数をかける。
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低級な食器にあまんじている者は、それだけの料理しかなし得ない。こんな料理で育てられた人間は、それだけの人間にしかなり得ない。
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料理といっても数々ござる。料理屋の料理、家庭料理、富者《ふしゃ》の好む料理、貧者の料理、サラリーマン級の料理、都会料理、田舎《いなか》料理、老人好み、若人《わこうど》好み、少年少女向き、病人向き……。すべからく料理をつくる者は、この別を心得、いやしくも自分の好みだけを押しつけてはならない。
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これほど深い、これほどに知らねばならない味覚の世界のあることを銘記《めいき》せよ。
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料理の世界にしても、これですべてがわかったという自惚《うぬぼ》れは許されぬ。いつもいつも夢想だに出来ないことが存在することを知らねばならぬ。
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飽きるところから新しい料理は生まれる。
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私が自分自身でふしぎなと思われるくらい考えつづけているのは食物、すなわち、美味探究である。つまらないものを食って、一向気にしない人間を見ると馬鹿にしたくなる。私は今でも自炊《じすい》している。三度三度自己満足できない食事では、すますことができないからだ。美食の一生を望んでいる。傾聴《けいちょう》すべき食物話が乏しくなったことは晩年の私を淋《さび》しがらせる。この点でも私は孤独だ。
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料理研究家と称される人々が昨日に今日にテレビで料理講習をやっている。美味と感ずるもののなかで視覚にたよるものが大《だい》な料理なのに、テレビ料理に出てくる先生というのが、調理するのに腕時計・指輪をはめたまま、ひどいのになると、ご丁寧《ていねい》にも爪紅《つまべに》までしている。こんなのを見ると、食欲減退である。それに料理研究家が揃《そろ》いも揃って爺《じい》さん婆《ばあ》さんなので、テレビで大写しにされる手が、これまた揃いも揃って薄汚い。料理はもともと理《ことわり》を料《はか》ると書く通り、美味《うま》い不味《まず》いを云々《うんぬん》するなら、美味の理について、もっと深く心致さねばなるまい。
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「綺麗《きれい》に盛りつけます」という言葉に誘われて、食器はと見れば、これまたガラクタばかり。食器は料理の衣裳《いしょう》だということを、ご婦人講師さんとくとお考えあれ。
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衰える食器。今日、大方《おおかた》の日本料理がわれわれに満足を与えない状態にある。これすなわち、食器の衰えは、料理界の衰えの影響であるといい得られるのである。
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新鮮に勝る美味なし。
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自然の栄養価値、栄養の集成が味の素である。
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低級な人は低級な味を好み、低級な料理と交わって安堵《あんど》し、また低級な料理をつくる。
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京都は、昔から料理がもっともよく発達していた。ここには長く皇居があった。しかも、四周《ししゅう》山々に囲まれて、料理の料理とすべき海産の新鮮なさかながなかった。ここに与えられた材料は、豆腐、湯葉《ゆば》、ぜんまいなどであった。この一見まずい材料をもってして、貴族、名門の口を潤《うるお》すべき料理を考案しなければならなかった。こうした材料、こうした土地柄が、立派な料理の花を咲かせたのは理の当然といえよう。
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まぐろはいつ頃、どこで獲《と》れたのが美味いとか、たいはどうして食べるべきであるとかいうようなことを知っているのが、いかにも料理の通人《つうじん》のごとく思われている。
だが料理はそんなものではない。ほんとうに美味いものを食べたいと思う食通は、まず飯《めし》を吟味《ぎんみ》しなくてはならぬ。飯のよしあし、また飯と平行して、煮だしこぶのよしあし、これを果してどのくらい知っている人があるだろうか?
美食は物知りになることではない。もっともよく使われる、手近な、料理の原料になる、これらのものを正当に知らなくてはならぬ。
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わさびもどこで採《と》れた、どのくらいの大きいものがいい、というようなことは誰でもよく話すことである。だが、どんなわさびおろしで、どんなふうにおろすのか知っている人は、存外|玄人《くろうと》の中にすら少ないものである。
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そういえば、台所道具がどこの家もなっていない。よく切れるいい庖丁《ほうちょう》、大根おろし、わけてもかつおぶしを削る鉋《かんな》のごとき、どれも清潔で、おのおの充分の用に耐えるべき品が用意されていないように思う。
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いいかね、料理は悟ることだよ、拵《こしら》えることではないんだ。名人の料理人というものはみなそれなんだね。
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今日《こんにち》の料理界なんてものは、ほかの世界に較《くら》べたら、底が知れている。料理界には穴があるんだ。あるといえばあるが、しかし、ほんとうのことはわからん。仮にいってみればあるというだけでね。要は、料理のために料理のことを知る、それよりほかに手はない。そうしてほかの先生を仔細《しさい》に検討してみるといい。
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わさびの味が分っては身代《しんだい》は持てぬ。
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栄養を待っている肉体に要求がなくなれば、美味にあらず効果もなし。
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外人でも日本人でも、料理を心底《しんそこ》から楽しんではいないようだ。味覚を楽しみたい心は持っているが、真から楽しめる料理は料理屋にも家庭にもないからであるらしい。栄養栄養と、この流行に災いされ、栄養薬を食って栄養食の生活なりと、履《は》き違えをしているらしい。
えて栄養食と称するものは、病人か小児が収監《しゅうかん》されているときのような不自由人だけに当てはまるもので、食おうと思えばなんでも食える自由人には、ビタミンだのカロリーなど口やかましくいう栄養論者の説など気にする必要はない。
好きなものばかりを食いつづけて行くことだ。好きなものでなければ食わぬと、決めてかかることが理想的である。
鶏《にわとり》や飼犬のような宛《あ》てがいの料理は真の栄養にはならない。自由人には医者がいうような偏食の弊《へい》はない。偏食が災いするまでには、口のほうで飽《あ》きが来て、転食するから心配はない。
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売ることを目的としてつくった料理が料理として発達し、日本料理の名をなしている。また一面、富豪《ふごう》が多数の来賓《らいひん》を招いて饗宴《きょうえん》する料理、体裁を主とした装飾料理があって、これもまた一種の日本料理として早くから発達し、その存在が許されている。
このほかに庶民が日常食として親しみを持つ郷土料理があって、これをお惣菜《そうざい》と呼び、日本食の代表的な地位を占め、日本人一億人ありとせば、九千五百万人はお惣菜という簡易日本料理によって生活し、これはこれなりに、愚《おろ》かながらも旧来の食に楽しみをもっているようである。
しかし、万人《ばんにん》が日常食とするお惣菜料理の大部分は、あきらめの料理であって気の毒である。高いものは食えない、料理の工夫は知らない、旧慣をあり難《がた》いものにして、自分たちはこれでよいのだとあきらめているからである。
これにつけ込んだというわけでもあるまい、放送料理という困った料理放送が続いている。
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美味《うま》い不味《まず》いは無意味に成り立っているものではない。栄養の的確なバロメーターである。
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料理は自然を素材にし、人間の一番原始的な本能を充《み》たしながら、その技術をほとんど芸術にまで高めている。
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「人はその食するところのもの」と、ブリア・サヴァラン(『味覚の生理学』の著者)はいっている。その人の生活と、大きく考えれば人生に対する態度が窺《うかが》われる。
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ほんとうにものの味がわかるためには、あくまで食ってみなければならない。ずっとつづけて食っているうちに、必ず一度はその食品がいやになる。一種の飽《あ》きが来る。この飽きが来た時になって、初めてそのものの味がはっきり分るものだ。
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料理の本義といったところで、別段むずかしいことはない。要するに美味《うま》いものを食うことである。しかし、美味いものといっても、値段の高い安いには関係がない。美味いものといえば、工夫によると思う者もあるだろうが、工夫だけでもだめだ。
料理のよしあしは、まず材料のよしあしいかんによる。材料の選択次第である。だから、
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