材料の眼利《めき》きが肝心《かんじん》である。これは今まであまりいわれなかったが、従来の料理論のエアポケットだ。どのだいこんが、どのたいが、どのかつおぶしが美味いか、という鑑定、これがまず第一で、これを今まではお留守にしていた。これを抜かしては問題にならん。材料を見分ける力をまずつけること。こぶでも、ピンからキリまである。つまり、人絹《じんけん》と本絹《ほんけん》との区分で、自然のものにも人絹みたいなつまらんものもある。
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なんでもすべて基礎工事が大切だが、食物でもまず基礎教育が必要だ。豚でもいろいろある。何貫目ぐらいの豚、たいでも何百|匁《もんめ》のたい、というふうに行かねばならぬ。鶏《にわとり》でも年|老《と》ったのは不味《まず》い。卵を生む前のが美味い。かように鶏といっても千差万別である。
また料理では加減が大切だ。同じ材料でも、加減次第で美味くも不味くもなる。加減を知ること、それには料理でも、やはり、学ぶことが必要で、群盲《ぐんもう》象《ぞう》を撫《な》ずるようなことではいけない。
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料理を美味く食わすという点からいえば、同じものでもよい器に容《い》れる。景色のよいところで食うことが望ましい。叶《かな》わぬまでも、なるべくそういうふうにする心がけが必要である。アパートでも、部屋をよい趣味で整えて食事をする。そういう心掛けが、料理を美味くする秘訣《ひけつ》だ。ただ食うだけというのではなく、美的な雰囲気《ふんいき》にも気を配る。これが結局はまた料理を美味《うま》くする。
絵でも、書でも、せいぜい趣味の高いものに越したことはない。これまた心の栄養で、人間をつくる上の大切な肥料なんだから。
料理というと、とかく食べ物だけに捉《とら》われるが、食べ物以外のこれらの美術も人間にとって欠くことの出来ない栄養物なんだから、大いに気を配ることが肝心《かんじん》だ。事実、食事の場合に、生理的にも好《よ》い影響があるようだ。
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僕のところに婦人雑誌の記者などが、なにか料理について話してくれって雑誌の記事をとりに来る。だが、そんなのにいったって、真に分ろうとしないんだから、いったってつまらん。なんでもそうだが、ちょっとおつとめで記事を取りに来る人なんかに、なにを話せるものかって、いつも話しゃしない。書く本人が分らんで、美味なんて記事はどうして読む人に分ると思えるものかって、いつもいってやるのさ。
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良寛《りょうかん》が否認する料理屋の料理とか、書家の書歌|詠《よ》みの歌の意は、小生《しょうせい》、双手《もろて》を挙げて同感するが、世人は一向反省の色を見せない。世人の多くは真剣にものを考えないとしか考えられない。
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それにはそれの訳がある。もともと料理には無理がある。
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貧しき人々が貧しき人々の好みの料理をする。これはマッチしていて苦情はない。
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貧しき人々が富める人々の食事に手を出すでは、うまくマッチしない。
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貧しき人々と富める人々の中間に在る人々の料理は、まず貧しき人々の手になるであろうが辛抱《しんぼう》の出来るところ、出来なくてもしようはない。
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富める人はなんとしても貧しき人々の手で出来た料理を口にする以外に道はない。貴婦人は台所で立ち働く習慣がないからだ。
明治の元勲《げんくん》井上侯のように、あるいはアイゼンハウワーのように、来賓《らいひん》に供する料理は必ず自分でつくる、あるいは監督もする、献立《こんだて》はもちろん。こんなふうな人が多々あると、貴族は貴族同士、富豪《ふごう》は富豪同士で楽しめるわけだが、いずれの国にあっても、そうなってはいない。こうなると貧しき人々が、貧しき人々の好む料理をつくることが一番幸福であるようだ。
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野菜は新鮮でなければならぬ。八百屋《やおや》に干枯《ひから》びて積んであるものを買わず、足まめに近くに百姓家《ひゃくしょうや》があれば自分で買いに行くがいい。かえって安価につくかも知れない。
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台所のバケツにほうれん草を二日もつけておく人がある。ほうれん草は、台所用いけばなにあらず。
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砥石《といし》は庖丁《ほうちょう》に刃をつける時に使え。使用後の手入れをちょっと怠《なま》けると、すぐに庖丁はさびのきものをきてしまう。たまねぎも、きものを脱がして食べるのだから、庖丁も、きものを着たまま使うな。
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さかなを焼く時は……、
さかなというやつは、おもしろいものだ。じっと目を放さずに見つめていると、なかなか焼けない。それなのに、ちょっとよそ見をすると、急いで焦《こ》げたがる。
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人間は目をつけていると、急いで用事をするが、目をはなすと、さっそく怠けている。
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どうしても料理を美味《おい》しくつくれない人種がある。私はその人種を知っている。その名を不精者《ぶしょうもの》という。
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餅《もち》の中にも食べられぬ餅がある。やきもち、しりもち、提灯《ちょうちん》もち、とりもち。
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煮ても焼いても食えぬというしろもの[#「しろもの」に傍点]がある。せっかくの材料を煮たり焼いたりしたために、かえって食えなくしてしまう人もいる。お化粧したために、せっかくの美人がお化けになってしまうことだってある。
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ラジオで料理講習しているのをときどき聞いている。まさか豚や犬に食わす料理の講習ではあるまいな。豚や犬に食わせるようなものを配給したりするから、そこでラジオも、豚や犬に食わす料理を放送せねばならなくなるらしい。これは辛抱《しんぼう》料理ばかりだ。そして今に、優生学の講習の後で、おそらく種男を募集するつもりだろう。
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客になって料理を出されたら、よろこんでさっそくいただくがよろしい。遠慮しているうちに、もてなした人の心も、料理も冷《さ》めて、不味《まず》くなったものを食わねばならぬ。しかも、遠慮した奴《やつ》にかぎって、食べ出せばたいがい大食いである。
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腹が空《へ》ってもひもじゅうない、というようなものには食わせなくてもよい。
腹がいっぱいでもまだ食いたい、というようなやつにも食わせなくてもよい。
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食事の時間がきたら食事をするという人がある。食事の時間だから食べるのではなく、腹が空ったから食べるのでなければ、美味《おい》しくはない。美味しいと思わぬものは、栄養にはならぬ。美味しいものは必ず栄養になる。
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心配するな、舌のあるうちは飢えぬ。
だが、女と胃袋には気をつけよ。
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腹が空っては戦《いく》さが出来ぬ。戦さをしなくなった日本に、腹が空ることだけを残してくれたのは悲劇だろうか。そんなら、なにを食べても美味しくはないという金持の生活は喜劇か。悲劇は希望を求め、喜劇は希望を忘れている。
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一に加える一は二なり。万歳《まんざい》は一加える一は三。万歳は二人でしゃべる。二人でしゃべるから一人でしゃべる時の二倍のボリュームがあるかというと、さにあらず、それよりはるかに効果は大きい。
塩は万歳《まんざい》に似ていると思え。一合の汁に入れた塩の十倍を一升の汁に入れて煮て見|給《たま》え。集団すれば強くなるのは人間だけとはかぎらない。
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料理を教えるのに、塩何グラム、砂糖何|匁《もんめ》などと、正確に出すなら、ねぎを適宜《てきぎ》に刻《きざ》み、塩胡椒《しおこしょう》少々などというな。なになにを何グラムというような料理法を、科学的文化人の生活だと思っている人がある。科学的文化人とは、塩何グラムではなく、科学する生活態度を身につけた自由人のことである。
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野蛮人《やばんじん》には、歯磨き粉を呑《の》ませても、胃病がなおるということだ。
ライスカレーをつくる時、メリケン粉と炭酸をまちがえて入れる人が居はせぬか。しかも、食べてなおかつ気付かぬ人も、なきにしもあらず……。ただし、こんな料理は胃病のときにかぎりつくれ。
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料理をする時は、女の人は特に頭を手拭《てぬぐい》でカバーして料理すべし。ふけや髪の毛は味の素の代用にはならぬ。
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美味《うま》いもの食いの道楽《どうらく》は健康への投資と心得よ。
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日本料理は日本の美しい器にて、これは茶道にてきわめられている。けれども、今日《こんにち》の日本料理はもっと豊富なものになっている。また、科学的方面からも考察されている。われわれの味覚の嗜好《しこう》にも変化を来たしている。料理に使用される材料にしても、時代的な変遷《へんせん》が大《おお》いにあるであろう。今日の料理の堕落《だらく》は商業主義に独占されたからだと考えられる。家庭の料理は滅びる。家庭の料理が滅びることは、それだけ心身ともに不健康な人間が多くなることだ。
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料理に一番大事なことといえば、それは材料のよしあしを識《し》ることである。材料のさかな、あるいは蔬菜《そさい》など、優れてよいものを用いる場合は、料理は、おのずから易々《いい》たるものである。よほど頓馬《とんま》な真似《まね》をしないかぎり、美味《うま》い料理のできるのが当然である。
例えば瀬戸内海の生きのよいさかながあって、それが折りわるく下手《へた》な料理人の手にかかったとしても、種がよいために、どうにかこうにか美味く食えるものである。野菜にしても、京都のものなどで、新しいものを料理するならば、文句なしに美味いと決っているのである。それが場ちがいのもので、しかも古びた、さかなでいうなら、色の褪《あ》せた、臭気《しゅうき》のあるようなものでは、いかに腕のある料理人でも、どうしたって美味くはならないものである。野菜にしても、萎《しな》びて精気を欠いていては、味も香気もなく、ただもうつまらない食物にしかならないのである。こう考えて物が判《わか》るとき、材料のことをまず第一に心がけねばならぬ必要が起こるのである。材料の良否を心がけると同時に、次には材料の見分けがしかと掴《つか》めなくてはならないのである。
それには経験が充分できていないと、材料を目前にして、よしあしが分らないであろうから、買い物学とでもいう買いものの苦労を重ねなくてはならないのである。例えば婦人が呉服ものの選択に苦労するようにである。見れども見えず、食えどもその味が分らないというようでは、料理を拵《こしら》える資格もなければ、食う資格もないわけである。材料の良否は人の賢愚《けんぐ》善悪にも等しいもので、腐ったようなさかな、あるいは季節はずれの脂《あぶら》っ気《け》を失ったさかななどは、魂の腐った人間に比すこともできれば、低能あるいは不良に比すべきもので、優れた教育家の苦心が払われたとしても、その成果はおぼつかないものであると同様である。
ことに食物の材料は、さかなひと切れにしても、だいこん一本にしても、同じ値段で相当良否の別がある場合が間々《まま》あるのであるから、まず物を見てよいと認識して後、はじめて買いものをする習慣をつけることが肝要である。男なら酒のよしあしをやかましくいう酒|呑《の》みのように、ものの吟味《ぎんみ》を注意深くするようになれば、料理のよしあしが語れるわけである。そこで概念的に考えねばならぬことは、値段の安いものは概《がい》して下《くだ》らぬものが多く、値段が高いものは総じて品物がよいということである。それは何物でもある。ただし、掘り出しものは別である。それはいうまでもない。
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誰でもふつうに、商売人の手になった料理は、美味いものかのように考えるが誤認である。なるほど、商売人は料理の玄人《くろうと》である。しかし、玄人はいろいろの条件において料理をする。第一に値段を考えて料理をするであろう。邪道《じゃどう》であるけれども、商売上であれば、採算の
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