供を騙《だま》すような料理をつくることは、料理人の無恥《むち》を物語るものであろう。
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 日本料理といっても、一概《いちがい》にこれが日本料理だと簡単にいい切れるものではない。いい切った後から、とやかくと問題が起こり、水掛《みずかけ》論が長びき、焦点がぼけてしまうのが常だからだ。昔もそうだが、近頃ではなお更《さら》である。
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 日本人が常に刺身《さしみ》を愛し、常食するゆえんは、自然の味、天然の味、すなわち加工の味以上に尊重するところである、と私は思っている。
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 すべて本来の持ち味をこわさないことが料理の要訣《ようけつ》である。これができれば俯仰《ふぎょう》天地《てんち》に愧《は》ずるなき料理人であり、これ以上はないともいえる。
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 次が美の問題である。
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 料理も美味《うま》い物好き、よい物好き、なにかと上物《じょうもの》好き、いわばぜいたく者であってこそ、筋の通った料理が生まれるのである。
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 味に自信なき者は料理に無駄《むだ》な手数をかける。
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 低級な食器にあまんじている者は、それだけの料理しかなし得ない。こんな料理で育てられた人間は、それだけの人間にしかなり得ない。
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 料理といっても数々ござる。料理屋の料理、家庭料理、富者《ふしゃ》の好む料理、貧者の料理、サラリーマン級の料理、都会料理、田舎《いなか》料理、老人好み、若人《わこうど》好み、少年少女向き、病人向き……。すべからく料理をつくる者は、この別を心得、いやしくも自分の好みだけを押しつけてはならない。
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 これほど深い、これほどに知らねばならない味覚の世界のあることを銘記《めいき》せよ。
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 料理の世界にしても、これですべてがわかったという自惚《うぬぼ》れは許されぬ。いつもいつも夢想だに出来ないことが存在することを知らねばならぬ。
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 飽きるところから新しい料理は生まれる。
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 私が自分自身でふしぎなと思われるくらい考えつづけているのは食物、すなわち、美味探究である。つまらないものを食って、一向気にしない人間を見ると馬鹿にしたくなる。私は今でも自炊《じすい》している。三度三度自己満足できない食事では、すますことができないからだ。美食の一生を望んでいる。傾聴《
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