はなくもがなである。
 握《にぎ》りずしのように、まったくおろしを用いない場合は、ぜひともわさびは必要であることは論を俟《ま》たない。故《ゆえ》にまぐろのすしは、涙がぼろぼろこぼれるほど、さびの利《き》いたのをすし食いは賞美する。ところが羊羹《ようかん》のような赤身は脂肪分が少ないからさびが利くが、中脂肪以上、トロなんという脂肪のきついところになると、さびの辛味は脂肪で跳ね飛ばされて一向に辛くない。屋台店などに立つすし食いは、「さびを利かしてくんな」と馬力《ばりき》をかけるが、すし屋の方では、まぐろの安いときは、さびの方が高くつく場合があるから、こんな連中ばかりやってきてはやりきれないが、「さびなしで……」なんという衛生的|食道楽《くいどうらく》もあるから、埋め合わせはつくというものである。
 しかし、まぐろはちょっと臭《くさ》い癖のあるものであるから、この場合も、ぜひしょうがの酢漬けだけ添えて、いっしょに食べたいものである。私の食い方なぞは、さびの利いた上に、しょうが二、三片ぐらいをすしの上に載せてやる。すしは酒の肴《さかな》としてずいぶん用いられているが、どうもまぐろは酒の肴として
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