鮪を食う話
北大路魯山人

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)価《あたい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)東京|魚河岸《うおがし》で
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 東京ほどまぐろを食うところはあるまい。夏場、東京|魚河岸《うおがし》で扱うまぐろは一日約一千尾という。秋よりこれからの冬に約三百尾を売りさばくというのであるから、東京のまぐろ好きが想像されようというもの。夏場の千尾は、つまり夏漁が多いのであって、冬の三百尾は冬の漁獲がそれだけなのである。冬は夏の三分の一より漁獲がないのである。そうして、これらの産地は全部を北海道といってよい。
 去年の夏のことだが、北海道の漁場で一尾の価《あたい》一円でなお取り引きがなかったという。東京の刺身《さしみ》一人前一円と較《くら》べては、たいへんな開きである。もちろん、一尾一円は肥料の値段である。もっとも春二月より五、六月ごろまでは、九州|種子島《たねがしま》方面から相当に入荷があるようであるが、これは質がわるいとされている。まぐろの一番|美味《うま》いのは、なんといっても三陸、すなわち岩手の宮古《みやこ》にある岸網《きしあみ》ものである――ということになっている。
 私の経験においても、この宮古ものがまったく一番結構である。このまぐろはずいぶん大きく、一尾五、六十貫から百貫近くあって、立派なものである。もちろん、しびまぐろである。この大きな先生が岸網というぶりの網に自然に入ってくるので、これを巧みに小さな舟になぐり上げるということである。しかし、この宮古ものというのは、きわめて僅少《きんしょう》であるから魚河岸にもあったりなかったりで、いつでもあるとはいかない。ここ以外で捕ったものは、とうてい宮古もののような美味さがないので、自然宮古ものは珍重《ちんちょう》されている。
 まぐろの中で一番|不味《まず》いのは、鬢長《びんなが》という飛魚《とびうお》のような長い鰭《ひれ》を備えているもので、その形によって鬢長というらしい。これは肉がべたべたとやわらかく、色もいやに白く、その味、もとよりわるい。とうてい美食家の口には問題にならぬ代物《しろもの》である。しかし、まぐろの少ない時季には、三流どころの刺身として盛んに用いられている。ところが、この鬢長君も世に出る時が来て、一昨年は盛んに米国へ輸出されて、あんまりバカにならぬことになった。というのは、これを油漬けにしてサンドイッチに使ったというのである。すなわち、米国では鬢長《びんなが》まぐろのサンドイッチを発明してこれが流行したのである。日本では薄遇《はくぐう》の鬢長、米国にもてるというので、一昨年のことだ、漁村の仲買人《なかがいにん》はいっせいに輸出準備をしたのであったが、時も時、鬢長君なにを感じるところあったか、自身米国近海に遊泳したので、昨年は米国において鬢長大漁とあって、日本の鬢長は再び断髪《だんぱつ》流行の日本に薄遇をこうむることになった。
 まだこのほかに東京人の賞美するまぐろの類《たぐい》に、かじきがあり、きはだがある。また、めじという小さなのがあるが、これはその味わいもまぐろの感じよりかつおに近く、これを賞美する方も、その感じで食っているからまぐろとしての話柄《わへい》から除く。さて、このきはだやかじきという奴《やつ》も、東京には年中あるようなものだが、十二月より三月ごろにかけてあるものは、おおむね台湾《たいわん》からやってくるので、いわゆる江戸前《えどまえ》の美味《うま》さはない。なんといっても、きはだは八、九月ごろ、沼津、小田原|辺《あたり》からくるものが江戸前である。かじきは房州銚子《ぼうしゅうちょうし》、東北三陸よりの入荷が一番とされている。長崎からもくる。以上のように、宮古《みやこ》のしびまぐろ岸網《きしあみ》ものを第一として、これから季節とともに、だんだんとまぐろ好きをよろこばす次第である。
 まぐろの話をすると思い出すが、かつて私は大膳頭《だいぜんがしら》であった上野さんに、宮古のまぐろをすすめたことがある。その時、上野さんは、
「こんな美味いまぐろを未だかつて食べたことがない」
 といわれた。必ずしもお世辞ばかりではなかったらしい。われわれから考えると、いやしくも宮内省《くないしょう》の大膳頭である。およそ天下の美食という美食、最上という最上、知らざるものなしといった調子のものであろうと想像していたのとは、案外の言葉を聴いたのであった。それならばと、このまぐろは宮古の産であって、この肉はしかじかの部分だということを説明した。上野さんの頭の中には、御上《おかみ》のさる御一人が、まぐろを好ませ給《たま》うので、このような最上のものがあるとするなら、献上してみたいという考えがあったのではないか
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