美食には必要となります。生きた野菜でなければ、真の美味は摂取できないわけです。
 さかなや野菜の生きているか死んでいるかを見分けるには、さかなでは容易に分っても、野菜では簡単に判《わか》りません。だから野菜では採りたてがよい、採りたてに近いほどよいとしてあります。たいなど大きいものになりますと、一日二日おいた方が、かえって味がよいこともありますが、野菜は採りましてからも、ある期間、不自然な発育をしていますから、その処理に工夫を要します。例えば、ねぎにしますなら、青いところを摘んでしまって、白根だけにしておきます。それでないと、青い部分を育てて白根の養分をなくしますから、そうしないようにする。また、だいこんでありましたら、葉をつけたままだと、葉を育てるためにだいこんの方から養分がとられますから、葉を切り放して、葉はすぐ糠味噌《ぬかみそ》に入れるなどした方がよろしいのです。
 野菜を扱うのには、このようなちょっとしたコツがあると思います。けれども、なんといっても、採《と》りたての野菜を、すぐさま使うよりよいことはないのであります。

魚も鳥も大は、ある時を経てよし、小は、新鮮にかぎると知ること
 魚とか鳥とかの大きいものは、相当時間が経過して味のよくなるものがあります。けれども小さいもの、鳥でいえば、鶫《つぐみ》とか鶉《うずら》とか雀《すずめ》とか、魚でなら、いわしとかあじとかいいますものは、獲《と》りたて、または締めたてでなくては美味《うま》くありません。
 大きいものならば、海から山から得て、五日あるいは三日を経過して、かえって味がよいものがあります。

生きた食器、死んだ食器
 そこで食器のことになりますが、せっかく骨折ってつくった料理も、それを盛る器が死んだものでは、まったくどうにもなりません。料理がいくらよくても、容器が変な容器では、快感を得ることができません。私は生きた食器、死んだ食器ということをいっておりますが、料理を盛って、生きた感じがしますのと、なにもかも殺してしまう食器とがあります。茶人という者になりますと、向付《むこうづけ》に五千円、なにに五百円という具合に、よい器を欲します。それは生きた食器だからであります。食器が下《くだ》らぬものでは料理まで生きませんから、料理と食器とが一致し、調和するように心がけるのであります。
 その食器を選ぶということも
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