のである。技術はなるほど進歩している。しかし、内容の低級なることまったく料理展覧会と軌を一にしているのである。こう見て来ると、要するにある者は縁あって料理をやり、ある者は縁あって彫刻をやり、またある者は縁あって水彩画をやったというに過ぎなくて、これらのひとはすべて人間価値において同じであると思われる。結局ひとがいないという結論になるのである。
しからば彼等はなぜそんなに低級なのかというと、要するに材料のなんたるかを、木彫のなんたるかを、水彩画のなんたるかを、充分に理解していないからである。器用にスケッチすることは出来ても、それが本体を掴むことが出来ないのは、本体のなんたるかを知らないからである。ひと口にいえば天与がなく、誠実がないからである。しかし、僕がこういったからといって、世間にこれらのものを賞賛するひとがないわけではない。ないどころかなかなかたくさんある。だいこんで鶴がうまく刻んであるとか、寿司の取り合わせがよいとかいってなかなかの人気であった。また、木彫にしても、水彩画にしても、これを買っているひとがあったのである。しかし、心あるものには、これらはとうてい賞めることは出来ない
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