なると、ついに一応ぶちまけてしまわなければならないが、そもそもわれわれが物心ついてから後に識り得たお茶人、または茶道関心のもとにたって、日常生活を楽しみつつある人々の遊び振りにかかるのであるが、この遊び振りが、いかほど光り輝いているのであろうか、という点である。他のすべての趣味にまさるとも劣らないまでに、立派に光り輝いて、遊び続けているのであろうか、という点である。
 三、四百年前の生活者、知能も品位も高き情操豊かな人々の苦心と愛情によってつづられた聡明たる美をもって成りたった茶道が、今は台なしになっているようなことは、なかろうかと案じられる点である。
 率直に案じてみれば、今わずかに茶道のほんの一部だけが残って、心細く余燼を燃やしているに過ぎないのではないのかとも考えられる点である。
 私は先年、金沢市で多くの茶道家? を相手に講演して、次のようなことをいい、新聞種にまでされたことがある。
「今人がやっているお茶事というものは、驚くべき無力平凡の結果として、まったく意識なしに、おろかにも人間の自由を束縛するものである」と、冗談半分ながら、日頃の所感を述べ、警告とも揶揄ともつかざる駄弁
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