がこの道の現実である。
 懐中の空白を意とせず、われに眼力ありとばかり道具屋並列の町々は、常に賑わっている。しかし眼力派なる者も挙句の果ては、争うべくもなくボロ買いへと落ち込み、怪しき茶碗に生涯のよろこびを托し、悪悟りにすましこんでいる例少なしとしない。が、それはそれとして今日のように、一個の茶道具が何万、何十万と決ってしまっては、無産階級は残念ながら、斯界から手を引き断念する以外に道はないようである。
 名幅を、名器をと羅列せざる茶は、まったく茶道に背くものであるという私の持論からいえば、プロの立ち寄る場所でないことになるのである。
 茶の世界によって古人の心を学び、茶道に情操を養い、茶技に興じ、いわゆる奥床しき人たらんとするには、茶道が作ってくれた美術総合大学に入門し、生涯かけて勉強する覚悟が必須的条件となる。そうなってみると、その教材資料が容易ではない。まず名だたる名幅、名器、等々を教室へと持ち運ばねばならぬ。これらが茶道を教うる先生となるからである。もし名器名幅を具えざる茶道学校があり得るとすれば、それは渇を医する飲料を教うる栄養学校であるかも知れない。茶の粉に変わりはないとしても、コーヒー化した茶の粉であり、紅茶化した一種の新飲料であって、茶道精神、茶道趣味とは縁の遠いものである。コーヒーや紅茶飲ますばかりに、つまらぬ真似してお茶の作法など利用されては誰もが迷惑しよう。
 にもかかわらず、お茶が全盛をきわめ、流行を続けているゆえんは、何一つ理解するところなく、ただちに点茶にとりかかる人々の勘違いが原因していることもあげられるが、勘違いさせているとも見られる遊芸人にも似た職業人の責任も軽く見るわけにはゆかない。他愛ない職業茶人、一部の遊芸人化した宗匠等々が、あまりに数多く現われ過ぎ、表、裏、官体と稼ぎ過ぎる風潮にも原因する。
 いまさら職業茶人なる方々のいずれにも、うまい茶杓を削れの、竹花入れを切ってみよとまではあえて迫ろうとしないが幅物書く力はなくも、古幅の真偽もだいたいわかり道具にも一通りは眼利きである。望まれれば、茶人らしく箱書ぐらいは俗書を脱して楽しみとなる字が書けるまでに至ってこそ当然なりとなって来るではないか。
 私はいま、茶人らしき字と語ってみたが、これは偽りものや、悟入なき者には、近寄り難いもののようであって、書道をきわめた上の悟人ある人物か
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北大路 魯山人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング