、茶道に深く悟るところあって、茶人の書という一種の見識に共鳴するに至った人間か、いずれにしても達人の境に近くして、眼力は奥義に開くものであるといえよう。
例えば、利休の字は宗旦の悟りにまでは至っていないと私は見ている。宗旦の字の方が茶に近いと私は見るのである。
近人、玄々の字はお茶の気に乏しく事務的である。こう賢く、遊びがなくては気の毒である。かつ下手くそにこなれなくては、名人芸とはいい難い、というのも私の見方である。
現存者中、私の知人に、月並越えて茶事が好き、茶の教えも推量するという二人がある。一人は松永安左衛門、一人は小林一三。前者の字は、天分もあって茶の香りも、かれこれ身についている。後者は物識りではあるが、その字から判断して悟入が乏しい。字というものは要は悟るか悟れないかの相違だけであるらしい。
次の茶人の字もついでに批判しておく。鈍翁、本牧、青山など素人茶人としての大家連、この人々のものする字はと見ると、いずれも半茶、半コーヒー党で、中途半端がともなって達人の境にある人々ではない。古美術、名器名幅を庫に満している名だたる茶人にしてからがこの現実である。名器を無視して茶を語らんとするがごときは、相想わざるもはなはだしきものであって、あまりにも道は遠いのではなかろうか。しかも私は、貴賤を問わず本格の茶に入り得られるという論者であることも申し添えておきたい。
私が他処眼《よそめ》をはばかるほど、イラついて、お茶に浸る人々をとらえ、とまれ美的感覚の向上をうながすゆえんのものは、総合美の構想になった芸術の発見、それを中心に茶人としての勉強をして貰いたいからである。
完成したお茶事の構想から審美の感覚をのけものにしては、お茶道は全部崩れもすれば嘘にもなるのである。まったく無意義なものになり、堕し切ってしまうのである。ためにある種の卑俗茶と悪化し、風趣高かるべきせっかくのお茶事を、めちゃめちゃに歪め、俗臭紛々、世の末を思わし、心ある者をして、嘆息せしめざるを得ないのである。かくのごとくして、迷信的とも見うる茶道の廃墟に松風を求めて祈るさまは、それが純情可憐な乙女達の多数を占めるだけに、気の毒でならぬ。
およそ茶に関係のあるものにして、切り離すべからざるものに、家屋があり、庭園があり、書画道具の類があり、いずれ一つとして、三百年前に見立てられた美術思想、
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