を弄し、平地に波瀾をまき起こしたというわけだが、それのみか、また次のような極言を続けて、いよいよ聴者を沸かしてしまった未熟講演の記録を遺している。
「今後のお茶というものは、プロレタリヤの境界にあっては、吾人が過去に聞かされたり、教えられたりした古人の心づくしになるお茶事は、もはや再び真似事さえ成し得られるものではない。味わい得られるものでもない。このことプロの立場からすれば、まことに口惜しい次第ではあるが、貧富の差による名茶器の行く方というものが、限定されてしまった今日、プロ級は富者のみが専有する数々の望ましき茶器茶道具を遠く離れて、昔の響きを聞いている以外に道はない。この現実は今後も長く続くものと想像して、まず間違いはあるまい……。
 かかる理由のもとに、今後のプロは古人の心の高く香るお茶なるものにはすこぶる縁遠いところに立つの他はない。」
 語り終わるかおわらないうちに、異議あり、異議ありの声が聴者におこり、反響すこぶる大なるものあり、弁明大いに務め、相手の得心をかちうるまでには、意外の務力を要した次第であった。

 最初から最後まで名器名幅を購い得ない者は、伝統を守りぬき、これを足がかりとしておるお茶人との交遊は、はなはだ縁の遠いものであることをなんとしても悟ってかからねばならぬと、私は警告しておいた。
 いわゆるお茶人たちが垂涎おかない茶道具といえば、まず三世紀前の人によって作られたものと考えておいて間違いはない。誰が作ったとしてもたいていは美作である。素人の作った茶杓、茶碗、竹花入れの類もおよそ今日に遺って珍重されているのは、いずれも美術価値を持ち、芸術価値を備えて茶道の魅力となっている。
 それならこそ、眼の利く者から見ては、たまらないのである。みずから専有欲の湧き起こる主観を禁じ得ぬまでに食指は動き、心中は波打つものである。それが売り立て市にでも出るとなっては、どうしようもなく、物持つ人の手にと移り行ってしまうのである。無産者の中にいかなる具眼の士あろうと、好事者が潜んでいようとも神様は知らん顔である。
 しかし、たまには一驚に価するがごとき落ち洩れもあって、某が何々をクズ屋の店に掘り出したなどと人の噂に尾鰭もついて、一潟千里に流れ歩くこともしばしばあり、しかるべき人物までが、ガラクタ屋の店頭に怪しい眼を光らしている珍風景が、常に跡をたたないというの
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