素人製陶本窯を築くべからず
――製陶上についてかつて前山久吉さんを激怒せしめた私のあやまち――
北大路魯山人

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)轆轤《ろくろ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)伊賀|信楽《しがらき》

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      (一)

 私は日頃の心がけとして、後悔になるようなことは決してせんつもりでいるが、事実は、どうしてどうして大いに後悔することが次から次へ湧いて出て当惑することが少なくない。
 例えば先年前山久吉さんを激怒せしめたなどはその例のゆゆしき一つである。それが場所もあろうに三越の四階、私の作陶展覧会場でである。従って多勢の人ごみの中でだ。相手は耳順、私は知天命に近からんとする者、この二人が勢いづいてついに馬鹿野郎を相互連発したのだから私として後悔せざらんとしてもしないわけにはゆかない。
 事の起こりは製陶上の問題であって、見解の相違からなのだった。
 当時前山さんが鎌倉の自邸に製陶窯を築かんとされたとき、私が余計なおせっかいをいってやったものだ。実をいうと大した懇意でもないくせに、窯を築くのはおよしなさい、自作するなら別のこと、指図で職工に作らすようでは所詮なにも出来るものではない。仮に自作するにしても……ずぶの素人が片手間に轆轤《ろくろ》を廻《まわ》したくらいでは三年経ったって猫の飯食う茶碗も出来るものじゃない……云々てな、嫌な文句で手紙を送ったものだ。
 これにはさすがの前山さんもちょっと思慮を欠かれて真っ赤になって怒ったらしく、魯自身はとうに陶窯を築き、楽しみもし研究も続けながら、俺が窯を築きかけるといけないという。なんという失敬なことだ。実にけしからん。手前勝手な奴だ。……
 考えてみると私も、いい方だってあったろうに猫の飯食う茶碗だって出来るものかなどと、大袈裟《おおげさ》に過言したものだから、たまらなかった。なにを……という拳骨《げんこつ》が振り上がったのは、あえて今から考えなくても無理のない話である。それも私が純真にいったのならまだしもだが、多少含むところもあって意識的に彼を刺激したのだから、なんといったって私は人が悪い。魯山人はあくが強いなどとよくいわれるのはこのところだなとつくづく考えたのであった。
 しかし、私に余計なからかい気分の邪魔があったに違いないとしても、私が忠告の真意は誠実であって、私は心から、鑑賞家として聞こえある前山さんに築窯と製陶を止めさしたかったのである。これには今もって毛頭の偽りもなければ寸毫《すんごう》のからかい気分もない。
 なぜかといえば、いうまでもなく前山さんに轆轤を廻すつもりがないことも、廻せる可能の有無も私には分りきっていたからである。
 自分が造らなければ誰が造る。いわずと知れた職人が造るまでではないか。それでは前山久吉翁作ではなくて、久吉翁指図、職人某々作とならざるを得ない。これをお庭焼といってもよいが、職工がたった一人のさびしいお庭焼は取るにも足らんではないか、さらでだにお庭焼と称する物にさしたる名品が生まれていないことは前山さんとてとくと御存じである。これが私の忠言となって彼にとっては不服な刺激をもって迫ることになったゆえんだ。
 翁にいわすれば……否、現に前山さんが私に三越楼上で放言した一節を紹介すると……君遠州だっていちいち自分で茶杓《ちゃしゃく》を削りゃしないよ。皆職人に作らしたものだ。指導だ……指導だ……指図次第で出来るよ。この一言で私の陶製観をやっつけ得られるつもりらしく平気で怒号されたのだが、なにがなんとしても前山さんの芸術無理解の実体が人前にさらけ出されるまでで、一向に私をやっつける痛棒にはならなかった。しかも笑止に終わってしまわざるを得なかった。ここで私の卑見を披瀝すると、
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一、前山さんの第一の錯覚は一代の小堀遠州宗甫と御自分を同等に扱われたこと。
一、職人は職人でも遠州時代の職人と今日この頃、しかもそこばくのことでいいなりになってくれる職人とはその質が違う、腕が違う、心が違うという点に不注意であったこと。
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 そしてその前山さんが陶製上の予備知識を絶無とはいわないが殆どというも過言ではないほど斯道《しどう》知識をもたれなかったこと。
 これらが私をして前山さんに製陶計画抑止の勧告を余儀なくせしめたゆえんなのであった。
 これだけでは、不遜《ふそん》魯山人、未だに人を馬鹿にしよると翁をしてまたしても激怒さすことになるやも知れないが、私は行き届かないながらも、これより順々徐々……「素人製陶本窯を築くべからず」の理由を具体的に出来得るかぎり読者、否、翁が心の底から得心されるべく述べたてて翁の廃窯に未練なからしめんと考えているのである。それには御迷惑でも住友寛一氏の製陶失敗例も出ようし、頼母木《たのもぎ》桂吉氏の九谷窯? の話も自然出さないわけにはいかないであろう。が止むを得ざるかかわり合いとしてお許しを願いたい。蓋《けだ》し故意に悪口を弄《ろう》するわけでないことはもちろんである。この点、なにかの御参考にならないものでもないとして、しばらく御判読を希望して止まない。

      (二)

 なぜ素人は窯を築いてはいけないのか、……これが答えはいうまでもなく、それは所詮出来ない相談であるからだと、私はいつもの憎まれ口をききたいのである。とはいってもその人の、望みの大きさ次第では一概にいって退《の》けたものでもないが、少なくとも前山翁のような好者であってはその望むところの最後のものが大きいとしなければならないから、要は出来ない相談だといわざるを得ないのである。伊賀に手をつけた某氏にしても住友、岩崎なんという富者にしても、頼母木氏のような好みの人々にしても所詮は出来ない相談である。これらはいずれもが、漫然出来得ると軽率にも誤認し、それを空《むな》しく求めているだけだと、私の常識と経験はいつでも断言を吝《おし》まないのである。
 これについて私は余計なことをと、他の誹《そし》りあることをよく知りながら、ぜひともこの問題を解剖し解決しようためにその仔細を開陳したいのである。それについて引例を便宜上前山さんにとることは、先の失敗もあることゆえ私はよほど考えたのであるが、かつて素人窯を築いた如上の人々の中で現在なおかつ、窯事の研究に没頭していられるのは前山久吉翁一人であるからいわば人身御供《ひとみごくう》に上らされたわけである。あえて翁を相手に戦うのでないことだけは翁においても諒承《りょうしょう》されたい。
 住友さんについてはどんな望みをもって製陶に臨まれたか、私はよく知悉《ちしつ》しない……が、氏は篆刻を鉄城に学んでみ、あるいは富岡鉄斎翁の画を臨写してみずから発表するなど一方ならぬ趣味人であり、かつまた清湘老人の画に巨金を投じて複製を世に配した位の好者でありする点から見て、その望まれる陶磁器もそのネライが奈辺《なへん》いかなるところにあるかは察するに難くないが、いずれにしても氏は財閥住友の御曹子であって浮世のせち辛さを知らないいわゆるお坊ちゃんと見るべき人である。それがためか否かは別としても、ともかく、京都からIという陶家を鎌倉に招き御大層な窯を築き、宿志なれりと考えられたのである。しかし、その束《つか》の間は実に数旬を出なかった。ついに持ち前の癇癪《かんしゃく》玉を破裂さし、失意の人となられたのは私から見て当然すぎるほど当然ではあるが、誠にお気の毒な瞬間を作られたものである。
 住友氏からして岩崎、前山、伊賀、頼母木の諸氏などからして、自邸に陶製し楽しまんと決意せられたまでの趣味性は私も覚えがあるが、まったく大した奮発の挙句なのである。
 しかるにかかわらずいずれもたちまち一場の夢と化しおわって無念にも悄然《しょうぜん》たらざるを得ないのはなんとしたことであろう。それはなにもかもがいかにも軽率な判断に過ぎなかったからとするの他はないのである。これはいずれもの人々が陶器師なる者さえ手許に連れ寄すること、よって思うまま欲するままに陶磁が窯出し得るものと、こともなげにも予断する軽々しいくせのある一事である。伊賀を作らんと欲して窯を築く人が伊賀|信楽《しがらき》にはあまりにも縁の遠い、横浜のMという陶家に依嘱して古伊賀の再現を期待するなど、私の口を率直に割るならば浅慮きわまるというの他はない。
 前山翁が最初仁清ふうを作らんとされた時も、京都のKという陶家をひっぱってきて、これに望みの夢をかけられたらしいのである。美校の画学生を聘《へい》して仁清ふうの絵付けをさせてみたりされるあたりは聡明そのもののような、前山翁の所作としては合点のいかな過ぎる常識なのだ。しかも、その期待に破れた後は瀬戸系陶器に心を移して志野、黄瀬戸、織部といった、しぶ好みなるものの成就を欲し、一挙気構えをそれに傾倒されたようである。が、惜しいことにこれとて深い用意および周到綿密な調査の行き届くものがあっての企図ではなかった。最初仁清に理解なき陶家を連れ来《きた》って、仁清を作らんとした誤った行為から一歩も前進のない進みをもって瀬戸系試作に臨まれたのであった。このこと、私の見聞に誤りなしとするならば、こととしだいもあろうに一種の札付で有名なAという名古屋出の道具屋に瀬戸陶工の身軽者を世話せよと迫られたことである。そこで最初に選び出されたBなる陶人は小さな奉公は出来ないと諾するところがなかったが、次のKなる陶人は身も心も軽く前山邸に轆轤を運んだ。それからというもの、この陶人と前山翁の角力《すもう》は勝負ありともまたなしともつかず、両人相対していろいろ複雑な辛抱の日が相互今につづいているあり様だ。
 うるさいことをスッパ抜く奴と思われることを必定として、ここにもう一ぺん念のため語らざるを得ないのはなんとしても翁の驚くべき勘違いである。なるほど、前山さんは茶道に縁あって以来というもの中国陶磁に朝鮮陶器に日本ものに、ありとあらゆる名器を幾度となく、繰り返して玩味《がんみ》せられたであろう。しかしてわれわれいわゆる素人が製陶に手を出した場面を目前に見られてはヨシ俺もという気になって事業家として成功せし自信を……聡明を……製陶の上にも盛り切れるものとして、扼腕《やくわん》し、たちまちのうちに志野も黄瀬戸もたちどころに再生させてみんと心をいら立てられたに違いない。
 聡明そのもののような趣味人たる諸氏がなぜかくも揃って軽挙されるのであろう。そうして不甲斐なくも悉《ことごと》く失敗の跡を遺して苦笑されるのはなんであろう。いやしくも男子一度志を立てた仕事である以上そうやすやすと瞬時の中《うち》に、事、志と違うようでは遺憾ではないか。諸氏はなにが故にかくも揃って苦い経験を作陶の上に舐《な》められるのであろう。
 私にいわしむるならば、それは別段とくに不思議な因縁があったわけではない。思いもよらざる事柄が飛び出して挫折《ざせつ》したわけでもないのだ。つまりは諸氏の望みと諸氏の用意との間に齟齬《そご》があったのである。諸氏はいよいよ作陶に取りかかるというその日までにどれだけの用意があったであろう。作陶上に必要な教養をなにほど修めておいたか、またどれくらいの作陶経験を有していたか、私は率直にいってみるが「諸氏はおそらくなんの用意もまったくなかったのではないか」と、この点については諸氏の固有する才能そのものが自己を打つところの、持った棒となりおわったのではないか。
 焼物師には出来ないが俺が俺の家で指導したら、工夫したら、聡明な考え方をもってしたら、染付、赤絵、九谷、瀬戸、唐津、朝鮮、中国、なにほどのことやあらん。俺だ……俺だ……俺の頭だ、俺の知識だ、俺は鬼だ、金棒さえ振りゃなんだって出来得ないことがあるか、金棒というのは焼物師のことだ、焼物師、俺につけ……こんなふう
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