に諸氏は方法で物が生まれると早計に考えられたのである。なるほど、現在の五条坂や帝展物はある程度の方法によって出来得ることは私とて保証の一人に立つ者であるが、もともと諸氏が希望するような芸術的作品は……名陶は……さようゆるがせない方法のみでは出来ないのであることを断言したい。試みに考えてみらるるがよい。陶器なるが故に聡明な諸氏もうかうかしていられるが、これを画に移して、ある方法のもとに名画が生まれ出《い》づるかを考えられたい。愚にもつかぬ画家を雇聘《こへい》し来って、その者から名画を生ましめることが方法によって出来得るか出来得ないかを考えられたい。
察するに諸氏はその昔宗和が仁清を造ったなどという俗説をうかうか信じ、宗和再生を夢見られたかも知れない……が、宗和は生まれていなくとも仁清は立派に仁清であったと私は断言する。宗和によってボンクラな仁清が一大天才に変わったと解する者があったとしたら、それは度すべからざる痴漢だと私はいう。況や宗和でなき者の力が、況や仁清に比すべき天才を見出さざる者が、千の辛も万の苦も経験せず、問疑答離の経験もなく万巻の書もとより繙閲《はんえつ》せず、しかもただちに彼岸に達せんとするがごときは慨歎に値するとされても仕方あるまい。
(三)
素人が窯を造る場合、その目的が大量製産の利潤にあるか、少量優品製作にあるかはあえてわざわざ問うまでもあるまい。しからば少量の優品を作り出して優雅逸楽に耽《ふけ》らんとするには、その作品は誰が作るのであるかに問題の重点をおき、これが注意の的とならざるを得ないではないか。そこにはとくに優れたる作者の存在がなきかぎり優れたるものが生まれ出でようはずがない、かくて作者は誰かと考えざるを得ないのである。
これを住友氏の場合に照合するとき京都のI氏監督、それに属する無名の工人二、三となる。また前山氏の実例をもってすると最初が京都系、次が瀬戸系工人、それがいつも一人か二人である。次の頼母木氏の場合は少しく事情複雑であって、坊間伝うるところによると、これは必ずしも頼母木氏一建立の御道楽になったものにあらず、加賀|山代《やましろ》温泉場のいわゆる、九谷窯の某氏(職商いをなす人)との妥協になるいわば一挙両得を考慮した築窯である。しかしてこれとてなんら特別な工人をもって当たるところではない。
かような事情になる諸家の素人窯から優秀なる名陶が生まれ出でようはずのないことは別段ここに氷炭冷熱をいわずともみずから明らかではないか。それはいうまでもなく当たるに足るしかるべき作家を各自が有さないからである。名作はいかような場合にも天から雨のように降るものではない。誰かが製作するところのものである。ここにおいて作家なくして名品の製出を夢見る各家はいかなる常識をもって起案し、いかなる算用をもって結果を望んでいられるか私は実にこればかりはただただ不思議に堪えないで困っている。
私は先にもいったことであるが、おそらく各家は自己の指導力によって往古に見るがごとき名作を成し得られると大雑把に考えられたことと察せざるを得ないが、もし果たしてしかりとするならば、これを画の製作に考えを移して、各自の指導力が雲舟、牧谿でなくても三楽を生むか元信《もとのぶ》を生むか桃山芸術を生むかを反省されたい。私は優れたる芸術、優れたる美術は小さな一人の指導力で生まれるものではないことを断言する。況や個性ある芸術をや。
前山翁はまったく罪のないことをいう人で、窯の仕事などというものは自己の経験からいうとき、一代二代の研究で出来るものではないと、まるで科学の発明でもあるかのように譬えて、自窯の不成功を闇《あん》に仄《ほの》めかされたが、これはテレ隠しというものであろうではないか。
翁は志野の釉《うわぐすり》が意のごとくゆかない、志野の火色が出ない、黄瀬戸が思うように発色しない。これが成功を見るまでに進めることは一代や二代の研究でゆくものではないと考えられたに違いないと察せられるが、翁が一人や二人の工人を相手《あいて》に、僅々《きんきん》二年三年の片手間にも足らざる研究でこれを率直に発言させるのは、あまりにも罪がなさすぎるのではないか。
況や、名人に二代なしは昔から伝うるところである。光悦の後に光悦なくのんこうの後にのんこうはない。のんこうの先にものんこうはない。仁清の先にも仁清なく、仁清の後にも仁清はない。翁が苦心? の志野もまた志野以前に志野はないのである。初期志野時代以後にも志野はないのである。前山氏が僅々二、三年の経験をもって、その不如意を弁ずるに当たって一代二代の研究のよくするところでないなどと公言されるのは、私はあまりにも罪がなさ過ぎるとするものである。実業家としての前山翁は一部に俊敏の聞こえ高い名士であるがごと、窯業芸術となってははなはだ解し難い腕前を有する人といわざるを得ない。
しかも、ものは分ったから出来るとはかぎらない。否分ったからとて出来るものではないのである。分るということと出来るということは別問題であるといってもよいくらいのものである。
如上の各家が勘違いをされたのは、とりもなおさずこの一点に存すると考えられないことはないのである。譬えるまでもなく、仮に墨跡が分る具眼者であるとしても自己に能書ありとはかぎらない。牧谿が分る、梁楷《りょうかい》に合点がゆくとしても自己に描けるものではない。
前山翁の場合のように自己が仁清に理解あるつもりだからとて、ただ単に工人を自家に呼んだだけで仁清が再現するものではない。自己そのものの天分が仁清と同じであって、しかして自己がみずから製作せざるかぎり仁清は再び生まれ出づるものではないのである。況や製陶上の概念知識さえも有しないズブの素人に雇傭《こよう》さるる工人、一美校生などの日給から仁清は生まれ出づるわけのものではないのである。さるにもかかわらず、自己の一挙手一投足に成功を簡単に夢見るごときは、実に傍若無人の暴案といわざるを得ないではないか。私は何遍でも繰り返すが、優れたる芸術は他人の工夫や立案で成就し成功するものではないのである。
価値ある芸術とは優れた天分ある人格者の識見からと、その練熟の腕前とから生ずるものであるのである。すなわち優れたる作者あっての優れた作品である。決してあかの他人のおせっかいや小さな権力から生まれ出づるものではないことを得心して欲しい。
ここにおいてあかの他人に当たる各家は製作上の真理に頷《うなず》いて貰いたいのである。すでに廃窯された諸家はその苦い経験からして今日では私同様の感を懐《いだ》かれていることと存ぜざるを得ないが、現在なおかつ現窯を持続せられている前山久吉翁にはなんとしても目的成就の不可能なる理由を悟っていただきたい。それは翁をして単一的鑑賞家、あるいは優れたる好者として完全に生かしておきたいからである。彼が好者としての金箔《きんぱく》をなまなかな製陶の不成功によって醜く剥がしたくないからである。翁はその骨董の買入について商人中もっとも物議の多い評判の人ではあるが、とにもかくにも好者は好者であり、かつもっとも優れた好者の一人である。翁がいかにその買方に道具屋の言のごとく紳士的であるとしてもないとしても、かなりに目のよく利く好者であることは、私の睹《み》る目をもってしても間違いは無いつもりである。
この一事をもって考えるとしても、翁たる者進んで廃窯の道を採るの挙がいかに賢明であり、いかに人物を大きくすることか分らない。人間は我もある程度に必要である……が、土俵割るも未だ負けを承服しないという田舎角力であってはならない。勝ちは勝ち、負けは負けと水の流れるごとく素直でなくてはよくあるまい。勝ち必ずしも名誉とはかぎらない。負け必ずしも不面目とはかぎらない。や、これはこれは失礼、うかうか、釈迦に説法……脱線の儀は平に平に謝し奉る。
(四)
またしても前山久吉翁の製陶遊戯を引例して恐縮に堪えないと思っている。これはことによると、誤解の生ずる惟《こ》れなしと保険はつけられない程度に危険があって、自分も懸念しないわけではないが、現在、窯をもって理想的に名陶を作り出さんとし、もっぱらその成功を望んでいられる関係上、自然と風向きがその方に趣《おもむ》くのはまことに止むを得ないことである。これが前山翁であるがための引例でないことはもとよりいうまでもない。この点は翁みずからも充分了解していただけるものと信じ、しばらく素人本窯築くべからずの参考資料に上っていただく。
さて、前山翁最初の製陶目的は彼《か》の偉材仁清であったらしい。まず仁清ふうを工人に轆轤させてと考えられ、次に絵付けとなる、と考えるにも考えられたもので美校生を招かれたという。このことはよく美校の校長に擬せられ、とかくの話題に上る某日本画教授の口から私が聞いた話である。
私はこれを知って翁のために同情もすれば、苦笑もした。翁は仁清という大天才をなんと解していられるのかは知らないのだが、仁清ほどの特異な実在を再び造り出さんと自負する大望の翁が、一美校生を招きそれに仁清ふうの絵付けを託し、もって目的を達せんとせられたのはなんとしても認識を具《そな》えた所業と受け取ることは出来なかった。みずから翁らにしてみれば今の陶画工では清水坂以上の仁清は描き得べくもない。
それには美校の生徒をもってすれば、職工と違い指導次第では理解も出来、卑しからざる絵が出来よう、本歌を見せて語れば成功疑いなし、と……こう考えられ自分ながら妙案明知が創見されたごとくホクソ笑まれたらしい。果たしてそうであるならば私らの見るところとして、この場合の翁の処置妙案? は申しようもない、恐ろしい矛盾と錯覚からなる、非常識な創見を発揮したものとみなさざるを得ない。
いやしくも日本陶芸史上ゆゆしき陶芸作家として日本の誇りとし日本の国宝とする仁清は、憚り多いことをいうようだが、翁のように今の今まで陶磁製作上無関心者であって、その気まぐれ、ちょっとしたはずみの出来心から名工仁清が浮かび出ようはずのないことは火を見るより明らかであるとせねばならぬ。況やたかが美校学生の画力で彼の仁清を再現しようなどとは思いもよらぬ妄想である。
仁清というものそんなにたやすいものであるならば、さほどあり難いものではないという結論が当然と生まれはしないだろうか。それならば、わざわざそれが再現を期すべく努力を払う行為はこれまた矛盾の誹りを免がれないであろう。
僭越ながら私の経験から語れば、今日現存の轆轤工に仁清を解するものないこと、工作する者のなきことは誰に憚るところもなく断言し得られる。絵付けにおいてもまたそれと同じ意味を繰り返し決して不可ないと考えられるのである。一美校の学生はもとより、これが教授であろうが、他の大家達であろうが、それらの人たちの筆からは、仁清が生まれようはずのないことはあまりにも保証される。それはすべての現代新画が、如実に内容貧弱を物語っていることで分る。このうち、強いて適者? として抜擢《ばってき》するならば靭彦《ゆきひこ》、古径両氏の筆技と人品であろう。またしてもしばしば余談にわたることを謝すが、遠慮なくいうならば今の画人の絵というものはいわば体裁よき表面があるのみであって、芸術上必須の条件となるべきよき内容を有するものは見当たらない現状である。例えば、それは生花、挿花の美しさである。一見「根」あるものと区別を分たざる美しさを示してはいるが、もとより「根」あるものはないから、いかに美しくも実を結ぶべくもないと同様である。仁清は日本に純日本ふう彩色の製作陶未だ生まれざる今から約三百年前において初めて製作成功を収め、他方いずれもが朝鮮、中国の著しい影響を蒙《こうむ》らざるものなき当時にあって、にわかに彼一人がぜんぜん朝鮮、中国の存在を夢にも知らざるもののごとく、純日本単味の製作陶を創作し得たという偉材であった。その絵、その轆轤、その図案、ただただ仁清という一大芸術的特色、一大
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