創作的の識見を表現するのみにして、今日これを国宝に選びつつあるは決して偶然ではない。そこで、この偉大な仁清の作品に着眼し、これが再現を期すべく発奮した翁の愛美心と勇猛心と時流を厭《あ》きたらずとする努力には、さすが前山翁であると、私もその企図的精神に感歎《かんたん》し、賞賛|措《お》く能《あた》わざる一人ではあるが、ただし惜しむらくは、これが実現上、識者に図るところなく、熟考を軽率にして、不用意にも独断をもって、ひそかに京師の陶工一、二を拉致《らち》し、必然的に成就を夢のごとく見、かつ画学生の力をもって仁清の深遠なる絢爛をやすやすと生み出し、多くの好事家、鑑賞家、愛陶家をしてアッと讃歎《さんたん》せしめんものと、潜行的野望を懐かれた窯であったことは千慮の一失ともいうべきで、このところ永い過去の生活に世の辛苦を嘗《な》め尽くし、思いのままに今日の成功を見られたと見るべき前山久吉翁の所業としては、はなはだ合点がゆかな過ぎる結果を生み残念であった。
しかし、さすがのがんばり翁もその自家窯何回かの失敗に教えらるところあり、最初の空想は事実上不首尾におわったことを自覚し、これが幻滅を感じられたらしく、仁清再現の企図だけは計画いくばくもなくして放擲《ほうてき》せられた……を人から聞き知った。
この時……この際、翁にして製陶事容易にあらずとし、些細《ささい》な感情と世間に対する意地ずくなどにこだわるところなく、すなおにすべての製陶を断念して決然廃窯され、大きな世界の指導者になっていられるならば、翁の聡明と男性は災いを転じ、よき意味に印象づけられたのであろうが、惜しいことに再び舞台装置を変え、芸題を代え、看板を塗りかえ、再興行に移られたことである。これがまた失敗であった。これまたよき引っ込みのチャンスを逸して遺憾であった。実をいうとこの再興行に際しても、吾人《ごじん》は翁のために同情を繰り返し同時に苦笑を噛み殺したのである。
さるにしても、今後はまた、さらに登る一層の楼なる見識をもって……製作年代を遡《さかのぼ》り当今流行の黄瀬戸、志野の再製作を計画し、しかして一瀬戸の工人を聘されるに至った。
前山さんは元来物語を単純に考える人と見え、この際も瀬戸陶工わずかに一人の力でもって、古来著名なる志野、黄瀬戸、織部時代とされている芸術的古陶を、無分別にも一挙生み出さんと夢見られたらしい。私は約二年ほど前益田|鈍翁《どんのう》に面したときの直話であるが、鈍翁の言葉に、
「君、前山が来て近い中にきっと志野を焼いて持って来るって大|気焔《きえん》だったよ……」
私はとっぴな話を聞かされていささか驚いた。そして思わず不用意にも、これに即答した。
「それは出来ませんなあ……。いかに前山さんだってまた誰だって、それは出来ません。今は、そんなものを作れる人がありませんから……ときにあるいは様子だけが志野みたいな……黄瀬戸みたいなものが出来ないともかぎりませんでしょうが、ともかく、生命力は皆無なものに違いありませんから、一見似ているにしても実際の価値上、なんの美術価値もないものにきまっております。従って問題になるものではありますまい。私は前山さんを評するわけではありませんが、もし直評を許されるならば、前山さんの今の製陶認識では失礼ながら古《いにしえ》を偲ぶに足る、それは決して出来るものではありませんでしょう」
鈍翁は呵々大笑して……。
「そりゃそうだろうね、そうたやすくは出来るもんじゃなかろうね。時代が許さないだろうし、君の言のごとく作者がないだろう。しかし前山は大変な天狗《てんぐ》で何、そのうち志野を焼いて持ってくるというんだからおもしろいじゃないか」
と、大笑いされた。まったく前山という人、ことを一途に単純に考えられる人らしい。
しかし、この時の前山さんの自負する胸中を知るものは、もしかすると私一人かも知れなかった。当時翁は志野の本場|大萱《おおがや》から、その昔、志野に用いたかもしれぬと思われる陶土を手にしていられたことである。この陶土の入手に翁がいかに苦心を払われたかにはなかなかおもしろいニュースがとんだ。それは私が志野の古窯跡を星岡窯の荒川研究生によって発見し、ついでにその山間《やまあい》から陶土はもちろん、その他顔料土の材料を探査し、ようやくにしてその陶土を発見して鎌倉の星岡窯に持ち帰った直後のこと、時々星岡窯に来話する翁が雇傭の瀬戸工人某なる者、私の窯場にて瀬戸系研究に耽るAなるものと談話中、志野原土の大萱に発見されたること、星岡窯に持ち帰ったること等が話題となって明瞭し、某工人はこれを翁に忠告したものと解される節があって……。これからがまずいことに、端的な翁の性癖として、この佳報を特種扱いし、まっしぐらに土、土、土と志野陶土の入手に苦心され、ついに入手されるまでになった。村人の言によれば社員ふう特派使節がわざわざ美濃|久々利《くぐり》村に足を運ばれること三度、某工人はもとより、瀬戸のT氏を煩《わずら》わすなどずいぶん大がかりの努力であった。これは今でも村の話柄としておもしろく誇張されて遺っている。
翁は最初志野陶土発見を某工人の口から知ったとき、矢も楯もたまらなくただ陶土さえ入手せば即刻にも志野は焼成するものと早合点し、急遽《きゅうきょ》使者を山間に走らせられたのである。ところが純朴な村人の節義は存外堅いものがあって、星岡窯のAの発見と出資によって掘り下げていった洞窟《どうくつ》の陶土、……それは容易に翁の使者の命ずるまま乞《こ》うままには諾するところがなかったらしい。翁は焦慮して幾度か山中に使者を派し、村の役場員を動かし村益をもって交渉に当たらせ、ついに○○○出資を収めて希望の陶土を入手したという汗だく事件があった。
しかも、これが星岡窯のAにも私らにも積極的にことが運ばれたのであった。それはなんのためかはいうまでもなく、最初の行きがかり上、極秘中に策を練って志野、黄瀬戸を作り上げ、某々に目に物見せてくれんとする翁の稚気に外ならなかったのである。
しかしながら芸術の成功は是が非でも主観の信念からなる実際行為であらねばならぬに反し、翁はそもそもの最初から、その製陶態度がぜんぜん客観的であった。「指導で他人に拵えさす」これが第一客観である。「志野陶土があれば志野が再現するかに考える」これが客観である。これらは実に翁の目的をいかにしても成就せしめないゆえんであって、私らから打ち眺めるとき、ただただはがゆさを感ぜざるを得ないのである。ただし前山翁一人がその例でないことを追言する。
(五)
素人たるもの、ふとした趣味の軽はずみから、妙に矢も楯もたまらなくなり、資材に任せて無我夢中に築窯し、作陶の成果を空しくいたずらに楽しみ、自己に成就の用意があるなしを省みるいとまもなく窯に火を入れるなどは、有知のなすべきでないことわり[#「ことわり」に傍点]を前四回にわたって僭越とは知りながらいささか説くところであったつもりである。
しかし、その引例が主として前山久吉翁の現業窯におよんだことは、現在、窯に火を入れている唯一の人として止むを得ざる次第であったが、それにしてもはなはだ御迷惑をかけた点は重々お断りする。
そうはいってもずいぶんクドかったじゃないかとの誹りはあるだろう。だがそれは小生が毎度のこと魯山人はアクが強いといわれる点で、これまた今分のところ止むを得ない次第である。
さだめし読者も前山翁も分った分った、もう分った分った、もう分ったよう……を繰り返されていたことだろう。
魯山人のいうところ、要するに好きで窯を造る以上、自分ですべてを作ること、自作することによって意義があるというのだろう。分った。
自家窯といえども雇傭の工人に作らしたのではお庭焼を出でないというのだね。つまり芸術にならないインチキ芸術だというのだ。分った。
それから自作にかかるまでには鑑賞が達していなければならぬ。書が出来、画が非凡にまで進んでいなくちゃいかんというんだろ。分った。それだから伊達《だて》じゃいけない、真から底からのまこと心からの仕事でなくちゃ駄目だというんだろ、分った。
しかも天才的な神技が入用だというんだね。分った。……
土で出来るんじゃない、釉で出来るんじゃない、学校程度の窯業知識で出来るんじゃない、絵描き程度の画では絵付けがものをいわない。
現在の図案家程度では図案にならない、帝展の工芸じゃしようがないというんだろ。分った分った……。
しかしそうなると作陶資格ある者は満天下魯山人一人ということになるじゃないか、おい……冗談じゃないぜ。てな程度にまででも製陶認識を進めて貰いたいというのが私の希《ねが》いである。
必ずしも素人、窯を築くなと一概的にいうのではない。
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「星岡」
1934(昭和9)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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