財閥住友の御曹子であって浮世のせち辛さを知らないいわゆるお坊ちゃんと見るべき人である。それがためか否かは別としても、ともかく、京都からIという陶家を鎌倉に招き御大層な窯を築き、宿志なれりと考えられたのである。しかし、その束《つか》の間は実に数旬を出なかった。ついに持ち前の癇癪《かんしゃく》玉を破裂さし、失意の人となられたのは私から見て当然すぎるほど当然ではあるが、誠にお気の毒な瞬間を作られたものである。
 住友氏からして岩崎、前山、伊賀、頼母木の諸氏などからして、自邸に陶製し楽しまんと決意せられたまでの趣味性は私も覚えがあるが、まったく大した奮発の挙句なのである。
 しかるにかかわらずいずれもたちまち一場の夢と化しおわって無念にも悄然《しょうぜん》たらざるを得ないのはなんとしたことであろう。それはなにもかもがいかにも軽率な判断に過ぎなかったからとするの他はないのである。これはいずれもの人々が陶器師なる者さえ手許に連れ寄すること、よって思うまま欲するままに陶磁が窯出し得るものと、こともなげにも予断する軽々しいくせのある一事である。伊賀を作らんと欲して窯を築く人が伊賀|信楽《しがらき》には
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