する翁の稚気に外ならなかったのである。
しかしながら芸術の成功は是が非でも主観の信念からなる実際行為であらねばならぬに反し、翁はそもそもの最初から、その製陶態度がぜんぜん客観的であった。「指導で他人に拵えさす」これが第一客観である。「志野陶土があれば志野が再現するかに考える」これが客観である。これらは実に翁の目的をいかにしても成就せしめないゆえんであって、私らから打ち眺めるとき、ただただはがゆさを感ぜざるを得ないのである。ただし前山翁一人がその例でないことを追言する。
(五)
素人たるもの、ふとした趣味の軽はずみから、妙に矢も楯もたまらなくなり、資材に任せて無我夢中に築窯し、作陶の成果を空しくいたずらに楽しみ、自己に成就の用意があるなしを省みるいとまもなく窯に火を入れるなどは、有知のなすべきでないことわり[#「ことわり」に傍点]を前四回にわたって僭越とは知りながらいささか説くところであったつもりである。
しかし、その引例が主として前山久吉翁の現業窯におよんだことは、現在、窯に火を入れている唯一の人として止むを得ざる次第であったが、それにしてもはなはだ御迷惑をかけた
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