財閥住友の御曹子であって浮世のせち辛さを知らないいわゆるお坊ちゃんと見るべき人である。それがためか否かは別としても、ともかく、京都からIという陶家を鎌倉に招き御大層な窯を築き、宿志なれりと考えられたのである。しかし、その束《つか》の間は実に数旬を出なかった。ついに持ち前の癇癪《かんしゃく》玉を破裂さし、失意の人となられたのは私から見て当然すぎるほど当然ではあるが、誠にお気の毒な瞬間を作られたものである。
住友氏からして岩崎、前山、伊賀、頼母木の諸氏などからして、自邸に陶製し楽しまんと決意せられたまでの趣味性は私も覚えがあるが、まったく大した奮発の挙句なのである。
しかるにかかわらずいずれもたちまち一場の夢と化しおわって無念にも悄然《しょうぜん》たらざるを得ないのはなんとしたことであろう。それはなにもかもがいかにも軽率な判断に過ぎなかったからとするの他はないのである。これはいずれもの人々が陶器師なる者さえ手許に連れ寄すること、よって思うまま欲するままに陶磁が窯出し得るものと、こともなげにも予断する軽々しいくせのある一事である。伊賀を作らんと欲して窯を築く人が伊賀|信楽《しがらき》にはあまりにも縁の遠い、横浜のMという陶家に依嘱して古伊賀の再現を期待するなど、私の口を率直に割るならば浅慮きわまるというの他はない。
前山翁が最初仁清ふうを作らんとされた時も、京都のKという陶家をひっぱってきて、これに望みの夢をかけられたらしいのである。美校の画学生を聘《へい》して仁清ふうの絵付けをさせてみたりされるあたりは聡明そのもののような、前山翁の所作としては合点のいかな過ぎる常識なのだ。しかも、その期待に破れた後は瀬戸系陶器に心を移して志野、黄瀬戸、織部といった、しぶ好みなるものの成就を欲し、一挙気構えをそれに傾倒されたようである。が、惜しいことにこれとて深い用意および周到綿密な調査の行き届くものがあっての企図ではなかった。最初仁清に理解なき陶家を連れ来《きた》って、仁清を作らんとした誤った行為から一歩も前進のない進みをもって瀬戸系試作に臨まれたのであった。このこと、私の見聞に誤りなしとするならば、こととしだいもあろうに一種の札付で有名なAという名古屋出の道具屋に瀬戸陶工の身軽者を世話せよと迫られたことである。そこで最初に選び出されたBなる陶人は小さな奉公は出来ないと諾するとこ
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