であるがごと、窯業芸術となってははなはだ解し難い腕前を有する人といわざるを得ない。
 しかも、ものは分ったから出来るとはかぎらない。否分ったからとて出来るものではないのである。分るということと出来るということは別問題であるといってもよいくらいのものである。
 如上の各家が勘違いをされたのは、とりもなおさずこの一点に存すると考えられないことはないのである。譬えるまでもなく、仮に墨跡が分る具眼者であるとしても自己に能書ありとはかぎらない。牧谿が分る、梁楷《りょうかい》に合点がゆくとしても自己に描けるものではない。
 前山翁の場合のように自己が仁清に理解あるつもりだからとて、ただ単に工人を自家に呼んだだけで仁清が再現するものではない。自己そのものの天分が仁清と同じであって、しかして自己がみずから製作せざるかぎり仁清は再び生まれ出づるものではないのである。況や製陶上の概念知識さえも有しないズブの素人に雇傭《こよう》さるる工人、一美校生などの日給から仁清は生まれ出づるわけのものではないのである。さるにもかかわらず、自己の一挙手一投足に成功を簡単に夢見るごときは、実に傍若無人の暴案といわざるを得ないではないか。私は何遍でも繰り返すが、優れたる芸術は他人の工夫や立案で成就し成功するものではないのである。
 価値ある芸術とは優れた天分ある人格者の識見からと、その練熟の腕前とから生ずるものであるのである。すなわち優れたる作者あっての優れた作品である。決してあかの他人のおせっかいや小さな権力から生まれ出づるものではないことを得心して欲しい。
 ここにおいてあかの他人に当たる各家は製作上の真理に頷《うなず》いて貰いたいのである。すでに廃窯された諸家はその苦い経験からして今日では私同様の感を懐《いだ》かれていることと存ぜざるを得ないが、現在なおかつ現窯を持続せられている前山久吉翁にはなんとしても目的成就の不可能なる理由を悟っていただきたい。それは翁をして単一的鑑賞家、あるいは優れたる好者として完全に生かしておきたいからである。彼が好者としての金箔《きんぱく》をなまなかな製陶の不成功によって醜く剥がしたくないからである。翁はその骨董の買入について商人中もっとも物議の多い評判の人ではあるが、とにもかくにも好者は好者であり、かつもっとも優れた好者の一人である。翁がいかにその買方に道具屋の言のごと
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