の人間は人知で出来た味付け物を喜ぶ。それから先へはなかなか歩まない。
 これを絵画で譬えれば、愚にもつかぬ絵を喜ぶ者が、天然の美に関心ないようなものだ。薄《すすき》の絵を見て、それが芸術上愚にもつかぬ絵であっても喜んでいて、本当の薄を見るとき軽視するがごときだ。美しさにおいてはいうまでもなく、本物の薄がもともと美しいのであるが、その薄の美しさは分らないで、下手でも絵の薄を喜ぶ。
 味を知ることにおいても、たいていはこの程度のものが多い。要するに日本料理の名手たらんとする者は、天然固有の「味」を天分の舌に認識して、それをいかに生かすかに苦心する者であらねばならん。日本料理は西洋料理の鍋の中でゴッタ返す手腕が物をいうのではない。食品材料の良否を弁別することを第一とする。それが出来得る力こそ、日本料理の根本を知る者だ。しかも、その上、美術鑑賞の可能要素が要る。それというのは、よき料理になればなるほど、料理に関連する食器その他が美術価値を高めてくるからだ。
 日本料理は見る料理ではなくて見るに足る料理となるわけだ。暗室で食う料理でないかぎり、盲人の食う食料でないかぎり、美を離れて存在するよき料
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