識層の大多数である。そしてこの両者は勝負なしの角力を大分永々と続けている。いつ勝負の日が来ることか、この間、右に縫い左に抜け、とも倒れらしく見られる。そこで一番うまくやっているであろうことが考えられるのは、茶道具の売り買いを念頭におき、四六時中憂き身をやつしている者たちである。道具の売り買いする者はあえて道具屋とは一概にかぎってはいない。買い手と見てとれる者、時には売り手に身をかわしている場合も少なしとしない。どこまでが道具屋で、どこまでが買い手かは朦朧たる有様で、真茶人という人格者は、どこにひそみおるかが未だ明白でない。
従って巧言令色は道具屋の専売とはかぎらない。道具屋輩をして呆然《ぼうぜん》たらしめるようなより以上な巧言令色はお茶人|気質《かたぎ》の旦那筋にこそあって、本当の商売人という凄腕《すごうで》は果たしていずれであろうかが分明しない現実もある。真茶人という人格者はどこにどう居坐って黙っているのだか、はなはだ求め難い。これがわれわれの目に映じるところの茶界の姿である。
いずれにしても、ありあまる俗欲は巧みに袖の中に隠されてはいるが、いかんせんそれらの人々の物見る目はいつ
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