だから軽率におしゃべりは出来ないのである。
 利休によって長次郎の茶碗が生まれたというような見解、古田織部によって織部陶が生まれたのだと伝えられるような物の見方に向かい、いたずらに次々と付和雷同していくことは自重すべきで、みだりに俗説に従うことは不見識の誹《そし》りを免がれ得まいと私には考えられるのである。そこで私の考えとしては、利休により長次郎の茶碗が生まれたと伝えている俗説は、今後もっともっと検討して是正さるべきであると主張して止まない。古田織部によって織部陶が生まれたという俗耳に入りやすいいい伝えにも、私は簡単に従いかねるといいたいのである。
 かつてのいい伝えから一歩も出ないで、今もなお指導者の力次第で生命ある物体が生まれ出ると妄信することの危険を感ずるのままに、一言否多言を費やした次第である。
 本来、いやしくも茶趣味をもって立つほどの人であってみれば、いわゆる茶道の上からして一挙一動はすこぶる責任重大で、よくいうところの笑いごとですまされるわけのものではないのである。
 それが平気で茶道精神より脱線し、逸脱し、怪しき見解、妄《みだ》りにして低調なる行動を常として、なすところ
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