話もおしまいであるが、ともあれ松永さんのいう茶人の指導によりて優れた器が生まれ、初期茶人のような能書も生まれ、芸術工芸の理解も正しくなる……との説が、過去の実例によってだんだんと現実的に怪しくなってきている。作家よ茶を知れなんていわれてみても、聞く者今ではきっと眉に唾《つば》つけ笑っているような気がするではないか。かというて茶道教育なんて価値はない、無駄だ無用の長物だと私はいうのではない。むしろその反対に茶の教養のない人をみるたびに、不快ささえ感ずる者である。
 私のいうところは、従来の茶道教育そのままを受けさえすれば陶人には陶器が分り、陶器の要訣が悟れるというふうに相手を早合点さすような軽薄な説明は考えねばならぬというのである。十職《じっしょく》の家元に生まれたからとて、昔のような茶の心を心とした工芸が生まれるわけのものでもなし、これらは事実に徴して人の知るところであろう。指導だけでは必ずしも名器が生まれ出てくるものでないという証拠があまりにも多い。さすがに名人だ、彼にはなになにという茶人の指導があるからなあ……というような証拠は一つも見当たらない。ここはなかなかむずかしいところだ。
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