がお茶の道と心得られているのが現代茶人である。かかるが故に、お茶人の身上はこれこれとばかりなんら怪しむところなく、ただもうわけもなく喜悦し、この珍風景に縁なき徒輩たちを指しては妄りに俗物として、無風流の誹謗《ひぼう》を真向から浴びせかけるというわけで、まことに苦笑禁じ得ないものばかりである。茶界というもの紋切り型一通り覚え込むさえ三年や五年はかかるものである。しかもまだその上|幇間《ほうかん》的|駄洒落《だじゃれ》に富まざるべからざる要が加わるのである。この道、青山翁などは純に下手くそなものであった。そこへ行くと御殿山などはすこぶる堂に入り得意としたものである。茶会というもの笑話劇? 茶番狂言? 猿芝居? 漫才? なにがなにやらたわいもないことのようである。
以上のように心にもない悪口をもって現代茶人を事もなげに片づけてしまうことは、実のところ吾人のまったく忍び能わざるところであり、われながら無作法もまたはなはだしいと感じつつあるのである。かように下卑た用語によらなければ表現の方法がないというのかと、私の心は今糾弾している……が、しかしいわゆる歯に衣《きぬ》を着せず、体裁を飾るための
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