ぜんまいのうまさ、そばやそうめんのうまさ、すっぽんや山椒魚のうまさ、若狭の一《ひ》と塩、石狩の新巻、あるいは燕巣《えんそう》、あるいは銀耳、鵞鳥《がちょう》の肝、キャビア、まあそんなもののうまさに似た程度のうまさであるならば、わたしはあえてがたがたするひとびとにわざわざ笞《むち》打ってまでふぐの提灯《ちょうちん》持ちなんかしやしない。ふぐのうまさというものは実際絶対的のものだ。ふぐの代用になる美食はわたしの知るかぎりこの世の中にはない。
わたしはひとがなんと思おうとかまわぬ気で告白するが、今日わたしほど美食に体験を持っている人間は世間にほとんどない。朝から晩まで、何十年来片時も欠かさず美食の実験に浸っている。まったくわたしのようなものはまずないと信じられる。この点では僭越《せんえつ》ながら世上広しといえども、自分は美食家として唯一とはいわないが稀有《けう》の存在であると信じている。もとよりそれが善事とも悪事とも思わないこと、もちろんだ。
偉いこととも思わねば、馬鹿な所業だとも思わぬ。ただそういうふうに生まれ合わしてきただけだと思っているまでではあるが。とにかく、誰がなんといっても美
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