ら、これを掴《つか》んで串《くし》に刺すということだけでも、素人《しろうと》には容易に、手際《てぎわ》よくいかない。まして、これを体裁よく焼くのは、生《なま》やさしいことではない。
もちろん、ふつうの家庭で用いているような、やわらかい炭ではうまく焼けない。尾鰭《おびれ》を焦《こ》がして、真黒《まっくろ》にしてしまうのなどは、せっかくの美味《おい》しさを台なしにしてしまうものだ。いわば絶世《ぜっせい》の美人を見るに忍びない醜婦《しゅうふ》にしてしまうことで、あまりに味気ない。
こういうわけで、家庭で鮎《あゆ》が焼けないということは、少しも恥ずかしいことではない。見るからに美味《うま》そうに、しかも、艶《つや》やかに、鮎の姿体《したい》を完全に焼き上げることは、鮎を味わおうとする者が、見た目で感激し、美味さのほどを想像する第一印象の楽しみであるから、かなり重要な仕事と考えねばならぬ。だから、一流料理屋にたよるほかはない。
いったい、なんによらず、味の感覚と形の美とは切っても切れない関係にあるもので、鮎においては、ことさらに形態美を大事にすることが大切だ。
鮎は容姿端麗《ようしたんれ
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