鮎の食い方
北大路魯山人

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)素人《しろうと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)元気|溌剌《はつらつ》たる

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あら[#「あら」に傍点]
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 いろいろな事情で、ふつうの家庭では、鮎を美味く食うように料理はできない。鮎はまず三、四寸ものを塩焼きにして食うのが本手であろうが、生きた鮎や新鮮なものを手に入れるということが、家庭ではできにくい。地方では、ところによりこれのできる家庭もあろうが、東京では絶対にできないといってよい。東京の状況がそうさせるのである。仮に生きた鮎が手に入るとしても、素人《しろうと》がこれを上手に串《くし》に刺して焼くということはできるものではない。
 鮎といえば、一般に水を切ればすぐ死んでしまうという印象を与えている。だから、非常にひよわなさかなのように思われているが、その実、鮎は俎上《そじょう》にのせて頭をはねても、ぽんぽん躍《おど》り上がるほど元気|溌剌《はつらつ》たる魚だ。そればかりか、生きているうちはぬらぬらしているから、これを掴《つか》んで串《くし》に刺すということだけでも、素人《しろうと》には容易に、手際《てぎわ》よくいかない。まして、これを体裁よく焼くのは、生《なま》やさしいことではない。
 もちろん、ふつうの家庭で用いているような、やわらかい炭ではうまく焼けない。尾鰭《おびれ》を焦《こ》がして、真黒《まっくろ》にしてしまうのなどは、せっかくの美味《おい》しさを台なしにしてしまうものだ。いわば絶世《ぜっせい》の美人を見るに忍びない醜婦《しゅうふ》にしてしまうことで、あまりに味気ない。
 こういうわけで、家庭で鮎《あゆ》が焼けないということは、少しも恥ずかしいことではない。見るからに美味《うま》そうに、しかも、艶《つや》やかに、鮎の姿体《したい》を完全に焼き上げることは、鮎を味わおうとする者が、見た目で感激し、美味さのほどを想像する第一印象の楽しみであるから、かなり重要な仕事と考えねばならぬ。だから、一流料理屋にたよるほかはない。
 いったい、なんによらず、味の感覚と形の美とは切っても切れない関係にあるもので、鮎においては、ことさらに形態美を大事にすることが大切だ。
 鮎は容姿端麗《ようしたんれ
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