や》の食べるものだから。
 寿司に生姜《しょうが》をつけて食うのは必須《ひっす》条件であるが、なかなかむずかしい。生姜の味付けに甘酢《あまず》に浸《ひた》す家もあるが、江戸前としての苦労が足りない。さてこんなことをつぶさに心得てる寿司屋はなかなかあるものではない。ただし先に挙げてみた三、四軒の中にはある。しかし、これにもまたいろいろ長短があり一概《いちがい》にはいえぬが、実はこれを見破《みや》ぶるほどの食通《しょくつう》もいないので、商売|繁昌《はんじょう》、客にも判《わか》る人はきわめて少ない。
 寿司通《すしつう》と自称他称する連中もたいていはいい加減な半可通《はんかつう》で、それならこそまた寿司屋も息をつけるというものである。
 寿司は結局寿司屋が作ってるか、客が作ってるかということになる。見ているといい客はいい寿司屋に行き、わるい客はわるい店に行く。寿司屋と客とは五分五分の勝負で、各店それぞれそれらしいのが来ている。
 近年は寿司屋も進歩して、久兵衛《きゅうべえ》のごとき、人のうわさでは、鮎川義介翁《あゆかわよしすけおう》が後援して近代感覚の素晴らしい店構えを作っている。それがために、従来にない客種《きゃくだね》をそろえて寿司王を思わせている。また再興した新富《しんとみ》寿司本店も今までに見られないものを持って臨んでいる。これもまた、寿司王国を示している。こんなふうに寿司屋は体裁《ていさい》ではグングンと万事に改良し進歩を示している。しかし、これが一般向きの店となってはなかなかそうもいかぬ様《よう》である。第一に客種に問題があるのだろう。
 以下一々について各店主人の持つ寿司観の長短を俎上《そじょう》に載せて見よう。

 終戦後、闇米屋《やみごめや》という女性行商人が大活躍し、取り締まりなどなに恐れるところなく日々東京に入りこんで、チャッカリ商売したものであった。売り込み先は割烹《かっぽう》旅館、特に寿司屋を当てにして新潟・福島・秋田などからたくましくも行商に来ていた。東京では首を長くして持ちこがれているという様子が、彼ら闇屋の目には鋭く映るのだろう。寿司屋を始めようが、料理屋をやろうが、カツギヤにさえ頼めば米に不自由する都会ではなかった。
 このころの東京は、見渡すところ寿司屋ばかりの食べ物|横丁《よこちょう》かと思わせるほどの軒並《のきなみ》であった。雨
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