っとひどい話があった。なんでも大正八、九年の好況時代のことだ。日本橋手前のある横丁に、大あゆで売り出した春日《かすが》という割烹《かっぽう》店があった。これは多分に政策的な考えからやっていたことであるらしい。ところが、このあゆが非常に評判になった。一時は春日のあゆを食わなければ、あゆを語るに足りないくらいの剣幕であった。しかも、会席十円とか十五円とか好況時代らしい高い金を取っていたのであるから、馬鹿な話だ。なにしろ世間の景気がよくて懐に金がある。そこへ持ってきて、大あゆなるものが東京人士には珍しい。あゆの味のよしあしなどてんで無頓着な成金連だから、あゆの大きさが立派で、金が高いのも、彼らの心持にかえってぴったりするというようなわけで、自己暗示にかかった連中が、矢も楯《たて》もたまらず、なんでも春日のあゆを食わなければという次第で、この店は一時非常に栄えたものだ。
 あまりの評判だからついにある日、わたしも出かけてみた。行ってみると、そのあゆなるものが、まるでさばみたいな途方もない大きな奴《やつ》で、とうてい食われた代物《しろもの》ではない。仕方がないから、腹の白子を食って帰って来たが、どうしてこんなものが評判になったのかといえば、今いった通り、あゆというものをてんで知らない連中が、大きくて、いかにも立派なものだから、それにすっかり魅せられてしまったのだろう。
 料理人の野本君は才人でもあり、太っ腹の男でもあったから、時に応じた考えから、大あゆばかりをたくさん取り寄せ、それを葛原冷凍に預けて、出しては食わせ、出しては食わせていた。それにあゆの本当を知らぬひとびとが、彼の政略にまんまと引っかかった。しかし、この店も料理人の野本君が出てからは、なんだかすっかりだめになってしまった。
 だが、こんなインチキが、必ずしも過去の語り草ばかりではなく、現在築地あたりでこの手をやっているところがないではない。
 ある日河岸へ行ってみると、あゆのついた弁当が十五銭でできるという話をしている者があった。腐っても鯛という諺《ことわざ》はあるが、いかになんでもあゆである。安くても三十銭や五十銭はするであろうのに、あゆをつけて一つの弁当にしたのが十五銭とは何事だと、これには私もいささか驚いた。
 ところが、底には底があるもので、河岸あたりであゆが売れ残ると、これを冷蔵庫へストックしておく。そ
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