其薔薇色なりし頬、ルビー色なりし唇や、またそのあでやかに肥りたる肉体にめぐつた血液が、僕のこの手に惜し気もなく滴り落ちたのではないか。しかし僕はまた豊子の事を思はずには生きて居られない。たとひ自分の悪業の回想の苦痛に全生活の幸福を犠性にするとも、決して決して自分は豊子の事が忘れられない。彼女は実に立派な女であつた。そして活溌で男性的で大胆であつた。僕の生涯は彼女と一所になるに及んで忽ち燦爛と輝き始めた。かくて楽しき新婚生活の一年後の夏となつた。未だ子なき気楽なる二人は今年の避暑地の相談をした。『山と海とどつちが善いだらうな。』と言つた時彼女は『山。』と即座に答へたのである。そして彼女が行つて見たいと云ふ一地名を挙げた。それは信濃の山中にある。其処に豊子の友人の貴族の別荘がある。其れを借りようと云ふのである。僕も賛成しその貴族を訪ねて聞いて見た時一寸不安な気持がした、その人の話に依ると斯うである。その山荘は一族中の大層物好きな人の建てた物で大変な山の中にある。そして近来五六年はその周囲の山々に一大賊が手下を連れて出没し、方々の町村へ下りては殺人強奪を行ひ警察も手の付け様の無い有様。現在は
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