始めたのである。
『何あに、何でもないのさ。唯僕は愉快なんだ。べらばうに。俺が愉快な時にはお前も愉快にしなければ不可ない。』と変に踊りながら庭園を歩いた。然るにその日の午後四時頃になると僕は自分の脊髓が妙に麻痺するのを感じた。そして眠たくなつた。強ひて眼を開けて居ようと思ふがどうしても開いて居られない。遂に寝室へ這入つて寝台の上に打倒れたまゝ昏々と眠つてしまつた。やがてふと夢から覚めた、見廻すとすでにすつかり夜となり横の小卓の上にはラムプが点つて居る。懐中時計を見るともう十一時である。隣の寝台の上には豊子が静な寝息を通はせて眠つて居る。僕ははね起きてしばらくじつと頭を押へて居ると今夜の僕の心は非常に澄み切れる事を感じた。何だか今から庭園を散歩したくなつた。
 そこで横に眠れる豊子をゆり起した。『何あに。』と純白の寝衣姿なる豊子は起き上つた。『今から庭をすこし歩いて見よう。』すると是まで決して僕に逆らつた事のなかつた彼女が今夜はどうした物か『妾今夜は止します』と言つてまた横になる。僕は大変腹立たしくなつた。そして『ぢや勝手にしろ。』と言ひ棄てて独りで出掛けようとすると豊子も矢張り起上つて『ほんとに変な方ね。』と言ひながら尾いて来た。

(九) 青鞘の短刀で一刺

 我々の家の庭前は崖の上にあつて面積が随分大きい。そして起伏限りなく夜などは懐中電燈でもなければ危険である。僕は豊子に言ひつけて懐中電燈を洋服のポケツトからとりに遺つた。彼女は走つて行つたが、やがて手に電燈と、もう一つ変な物とを持つて帰つて来た。それは青い皮の鞘にはまつた一振の短刀である。
『貴方これどうなさつたの。洋服のポケツトから出てよ。』僕はびつくりした。『俺も知らないよ。一寸見せろ。』調べて見ると、是は刺すのに使ふ西洋式の実に鋭利な短刀である。変な事もある物だ。あの洋服ももう四五日着ないのだが、ひよつとするとあの山中の洞穴の中で入れられたのかも知れない。恐ろしい気持でそれを懐中し二人は庭に出た。今夜の天はすこし雲つて真の暗黒である。かなたを見ると山の影がおぼろに黒く空に立つて山中の深夜の威圧は限りなく身にせまつた。二人は無言で歩き廻つた。やがて庭園の最端谷を直下に見下ろす場所に来た時谷を見下ろして居た僕はふと一つの真紅の燈火が向ひの山の中腹の辺に点つて居るのを見つけた。よくよく見るとその燈火がしきりに右に動き左に動く。こゝから山までの距離に依つて考へて見るとそれは確に大きな提灯を人が振るのである。眺めて居る内に僕の連想はいつしかかの怪しき星の夢に来た。あの星だ。さうだ。あの赤い星にそつくりだ。尚じつと見て居るとその燈は輪状に或は上下に打振られる。その燈は何かの信号を伝へて居るのだ。僕の心は怪しくも打慄へた。段々見て居る内に僕は妙な気持になつて来た。忽ちはつとなつた。見よあの燈は明かに豊子を殺せと叫んで居る。『豊子。豊子。お前にはあの燈が見えるか。』と豊子に言ふと豊子は僕によりそつて暗をすかし見た。その刹那僕の懐中した手がさつと空を指したと思ふや否や水の様な悲鳴が僕の喉の下で起つた。
 吾に帰れば驚ろくべきかな僕は最愛の妻豊子をかの青鞘の短刀で一撃の下に殺害した後であつた。短刀は見事に豊子の心臓を刺し貫いたので、僕の手は真赤な熱い血に濡れた。夜目にも白いその顔を上に向けてがつくりと地に横たはつて居る。僕は茫然としてしまつた。懐中電燈を拾ひ上げてつく/″\と豊子の顔を照らし見た時涙は眼中に満ちて来た。何故俺は豊子を殺したのであらう。遂に殺人者になつてしまつたかと云ふ事の外何を考へる余地もなかつた。力なく立上つて山の方を見つめるとかの怪しき信号の燈はもう消えて居た。ぽんと背中を打つ者がある。驚ろいて振りかへると、そこには黒装束をした者が盒燈を提げて立つて居た。『誰だ。』と僕が顫ふ声で叫んだ時人物は燈を高く差上げて自己の顔を照らして見せた。野宮光太郎の鋭い相貌が真青な光を帯びてそこに笑つて居た。

(十) 殺人行者の仲間入り

 僕はその夜の内にかの山中の洞穴へ連れて行かれた。今から考へて見ると僕の真の意識はかの野宮に始めて会ひ人事不省に落ちた時以来野宮の恐る可き催眠術の為に何処かへ隠れてしまつて居たのであつた。実に浅ましい事には僕は妻を殺害した事に就て或感動は受けたが、何の悔恨の情も起らなかつた。
『さあもう俺は君を君の妻君の手から奪ひとつたのだ。是から君はこの洞穴に住まはなければならないのだ。』野宮が言つた時僕はもう此うなれば仕方がない。俺は野宮の云ふ通りにならうと決心してしまつた。そして野宮に是から永久に離れまいと答へると彼は満足げに微笑した。そして二人は酒を飲み再び兄弟の約束を誓つた。野宮はすつかり彼が首領たる賊団の秘密を語つた。それに依ると彼には十人の秀でた手
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