ば君の手は殺人に走らなければならない。俺の友とならな[#原文では「な」欠落、214上1]ければならない。俺はすでに二百九十八人の人間を殺した。俺の此殺人の修道は世界の最も秀れた芸術であり最も立派な宗教であることを信ずる。君よわが見たる内最も美麗なる少年なりし君よ。その美しき手を生命と共に奔ばしる人間の鮮血に濡らす気はないか。』『否。否。其様な恐る可き事をもう僕の耳に入れて呉れるな。決して入れて呉れるな。』と耳に手を当て僕は叫んだ。彼はそのまとひたる金色の着物の間から一声から/\と打笑うた。恰もその様な悪魔が何物かを嘲笑するに似て居た。そしてすつくと立上つて静かに僕の顔を打見守つた。
 僕も怒りに顫へてその面を睨みつけると不思議や忽ち眼前に一切は雲煙と化して、恐ろしい二つの眼が星の如くに光るかと思ふ間に、全然意識は消え失せてしまつた。
 ふと耳元に或さゝやきを聞いて再び眼を開いて見れば僕はいつの間にか別荘の門前に横はつて居る。驚いて起き上ると薄暮の暗中に立てるは彼野宮光太郎であつた。起き上ると同時に、厳かな声で次の如く叫んだかと思ふと忽然彼の姿は見えずなつた。『さらば第五日の夜半にまた会はう。』僕はしばらくあと見送つたがまず/\家へ帰れたと思ふと嬉しくなりそのまゝ中へ駆け込んだ。豊子は帰りの遅いのを心配して居た矢先大変悦んだ。彼女の顔を見て始めて生きかへつた様な気持になつた。しかし僕は出会したこの怪しい事物に関しては誰にも何事も話さなかつた。何だか言つては悪い様に感じたのである。それにしても僕はどうして知らない間にこゝまで送り返されてしまつたのであらう。僕は気が付いた。さうだ。彼は催眠術を使つたのだ。催眠術――此言葉は僕を非常に不安ならしめた。若しかすると僕は何かの暗示を受けてしまつたかも知れないぞ。彼はいつか睡眠中の暗示が覚醒後尚有効なる事を語つた。その後多年必ず彼は多くの方術を体得したに相違ない。彼はしかも『第五日の夜にまた会はう。』と言つた。僕は俄に恐ろしくなつた。その夜豊子にもう帰らうと提議したが豊子は大に笑つて僕の臆病をくさした。豊子だつて僕が山中で会つた事を話せば必ず帰京に同意したらう。けれども僕はどうしてもその事を人に言ひ得ないのであつた。一種不思議な力がわが唇を止めたので。

(八) 眼が血走つて来た

 その翌日から僕は何となく変調を呈して来た。何となくぼんやりし直ぐ眠たくなる。その癖発陽性が著しくなり、見る物聞く物皆面白い。嬉しくて手先が独りで躍り出す。頗る突飛な幻想が絶えまなく頭を襲ふ、僕は我知らず大声で唄つたり別荘の周囲を子供の様に馳け廻つたりした。豊子もすこし驚いたが彼女が元来活溌な性質なのでかへつて悦こんだ。僕はまた豊子に対する愛着が激しくなり毎日々々彼女と共に別荘近くを散歩しては花を摘んだり小鳥を撃つたりした。家へ帰ると一所に酒壜を傾けて飲んだ。こゝは高地であるから夏とは言ひながら春の様な気候である。僕はこの快さが無暗に好きになつた。そして目前にある危険がせまりさうなのをよく悟りながらこの山中を去らうとしないのであつた。こゝに一つの不思議なことがあつた。それはそれからと云ふ物僕が殆んど毎夜同じ夢を見る事である。その夢と云ふのは斯うである。僕は一人或山頂に立つて居る、右と左とに大きな谷がある。右の谷底には実に美麗な都会がぴか/\輝いて居る。然るに左の谷底は大きな湖水になつて居る。よく見るとそれは血の湖水だ。また空を仰げば真紅の星が一箇魔女の眸ざしの如く明かに澄み輝いて居るのである。自分は唯ぼんやり腕組してたゝずんで居る。是だけの事である。その夢を毎夜きつと見るのである。しかしいつもの自分ならそれを変だと感じもしようが妙ちきりんな状態にある僕はそんな事は格別気にも掛けないで矢張りのらりくらりと絶えず落着かず、少し本を読んだかと思ふとすぐ煙草を眩ひする程吹かす、画を描くかと思ふと鉄亜鈴をいぢる、その内に眠る、すぐ醒める、殆んど狂噪の状態であつた。かゝる状態にあると云ふ事は自分によくわかつて居るのである。しかもそれを好んで遺る様な二重の精神状態になつて居るのであつた。
 こんな有様で四日は過ぎた。五日目の朝になると僕は激しく四日前山中で会つた事物を思ひ出した。そして何とも言ひ難い恐怖に打たれた。『この山荘に居ては必ず何か危険があるのだ。第五の夜半にはつまり今夜にはまたお前は野宮と顔を合はせなければならぬのだ。だから早く今日の内に山を下りてしまへ。一刻も早く早く。』と内心の声が僕を叱咤する、その癖僕は相不変のらくらとその日を送つてしまつた。その日妻は殊の外打沈んで居たがじつと自分の顔を見つめては、『貴方どうかなさりはしなくつて。眼が妙に血走つてゝよ。』と云ふのである。豊子は余り僕の調子が異常なのですこし心配し
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