れる可き日は来た。別れる日彼は真実に涙を眼に浮べて僕の手を握つたので僕も泣いてしまつた。その時彼は次の如き事を厳かに言つてきかせた。『俺は俺自身で或恐ろしい運命が未来に横はり、俺はどうしてもその運命の中に生きなければならない事を直覚する。そして君も必ずその運命にたづさはる事であらう。我等の再会は必ずさう云つた場合に来るであらう。』と。僕はどう云ふ意味だかよくわからなかつたェ、そのまゝ別れた限り遂に今まで会はなかつた。彼が東京へ出て間もなく、ある争闘をして人を斬り行衛不明になつたと云ふ噂と共に彼の消息は絶えてしまつた。僕はやがて高等学校に入り東京で生活する様になつてからも、彼の事は決して忘れる事が出来なかつた。彼の名を思つても涙がにじむ程の思慕が、いつになつても止まなかつた。それは大学を出る頃までも続いた。そしてどうかして一目会ひたい会ひたいと思ひ度々探して見たがわからなかつた。しかし妻を貰つてからは一度も彼の事を思はぬ様になつて居た。その彼に、あゝ今この怪しい地下室で遇ふとは実に夢の様である。

(六) 俺は人殺しの行者

『おゝ君は元さんではないか。』と彼も叫んだ。そしてすぐ僕の縛しめを解いて呉れた。『随分年をとつたね。』と言ひながら別の椅子を僕にすゝめ、さて席定まつて彼と僕とはつく/″\と見つめ合つた。僕はたゞ茫然として何の考も出ない。唯彼の相貌が著るしく鋭利に神経的になつた事に特に気がついた。そして段々見て居ると彼が如何にも美しくなつた事がわかる。僕は嬉しくなつた。長い間気に掛け会ひたく思つて居た彼に、かく相対し得たと云ふ満足が彼の現在の位置に関する疑問をも僕の心に起させなかつた。
『君と此処で会はうとは思はなかつた。』と僕は言つた。すると彼は静に言つた。
『否。俺はこの再会をとうから予想して居た。よく君は来て呉れた。そらいつか俺が君と別れる時言つた言葉を覚えて居るか。あの時君が必ず俺の或運命にたづさはる可き事を予言したが果して[#「て」は、原文では「た」]君は来たね。是は実に必然の事であつた。』かく彼が言つてその眼光を僕の心の底深く投げた時、僕ははつと此奇異なる地底の人物が僕と昔容易ならぬ交情のあつた人物である事を意識しそれと共に『現在の彼』に対する責任と疑問と警戒の念慮が胸に湧き起つた。非常に不安になつた。『全体君は現在何の為にこんな所に居るのだ。』と問ひ掛けると彼は微笑した。そしていきなり椅子を進めて僕の両手を握り占めた。『俺が何故こんな場所に居るか。現在の俺が何であるかを君に明に話さう。俺の事をこの辺り一体の人間共が「人殺しの行者」と異名して居る。それは真実だ。俺は人を殺したい為に此んな穴の中に潜んで居るのだ。』
 僕は青くなつた。さてはかの噂に聞いたる大賊の首領と云ふのは実は僕の常に慕つて居た昔の義兄弟であつたのか。僕は昂奮して勝ち誇れるが如き彼の面を見つめた時に突如強い意志が心中に現はれた。すでに僕には今最愛の妻がある。今此処に居る美しく強力なるわが友は嘗てはわが世界の占有者であつた。しかるに今はわが世界は豊子の物である。野宮はすでに他人である。しかも悪む可き大犯罪人である。僕は断じてこの友に抗しよう。僕が沈黙せるを見て彼は再び怪しく微笑んだ。そして握つた手を固く振つて言つた。『君は今まで一刻も僕の事を忘れた事が無かつたらう。僕も一刻も君を忘れ得なかつた。そしてかくも再会の日は来た。君と僕とはまた相別れる事なく共に生きて行かうではないか。僕が今切実に君に教へる事がある。それは実に地上最高の歓楽だ。それは殺人の歓楽を君に教へようと思ふのだ。』僕はぎよつとした。彼の音楽的なる言葉は僕をみるみる内にひきつけようとする。彼はかの不思議なる中学時代の魔力に更に十倍した魔力を以て僕を自分へ引つけようとするのだ。しかも[#「しかし」と思われるが原文のまま]僕は握られたる手を払ひ退けた。そして彼を睨みつけて叫んだ。『君は何を言ふんだ。僕と君との親交はすでに昔の事だ。今は僕に妻がある。僕はその女を熱愛して居る。彼女以外僕の生活には何物もない。犯罪者の弟子には僕は勿論ならないのである。早く僕をこの坑から外へ出して呉れ。君と僕とはもう永久に友人とならないのだ。』

(七) 奇怪なる暗示

 彼は依然として微笑した。そして僕をなだめる様に手を振りながら説き始めた。『君はさう言ふのか。それは当然だ。すでに君が俺に執着のない以上決して強ひてとは言はない。しかし俺は永劫に君に執着して居る。俺は必ず君にまた僕[#「僕」は「俺」と思われるが、原文のまま]に対する執着を持たして見せる。それで俺は俺の思想を一言君に物語らう。堅く君に告げよう、およそ君にとつて殺人ばかりの快楽は此世界に求められないのだ。君が若し人生の美味なる酒を完全に飲み乾したけれ
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