其薔薇色なりし頬、ルビー色なりし唇や、またそのあでやかに肥りたる肉体にめぐつた血液が、僕のこの手に惜し気もなく滴り落ちたのではないか。しかし僕はまた豊子の事を思はずには生きて居られない。たとひ自分の悪業の回想の苦痛に全生活の幸福を犠性にするとも、決して決して自分は豊子の事が忘れられない。彼女は実に立派な女であつた。そして活溌で男性的で大胆であつた。僕の生涯は彼女と一所になるに及んで忽ち燦爛と輝き始めた。かくて楽しき新婚生活の一年後の夏となつた。未だ子なき気楽なる二人は今年の避暑地の相談をした。『山と海とどつちが善いだらうな。』と言つた時彼女は『山。』と即座に答へたのである。そして彼女が行つて見たいと云ふ一地名を挙げた。それは信濃の山中にある。其処に豊子の友人の貴族の別荘がある。其れを借りようと云ふのである。僕も賛成しその貴族を訪ねて聞いて見た時一寸不安な気持がした、その人の話に依ると斯うである。その山荘は一族中の大層物好きな人の建てた物で大変な山の中にある。そして近来五六年はその周囲の山々に一大賊が手下を連れて出没し、方々の町村へ下りては殺人強奪を行ひ警察も手の付け様の無い有様。現在は別荘番夫婦を置いたのみで打棄てゝあると云ふのである。そして言を極めて行つてはならぬと忠告した。僕もそれで思ひ切る事にし、帰つて話すと豊子はきかない。何でもその山へ行かうと云ふ。そこで僕も強てその山荘を借り受ける事にし、いよ/\二人で出掛けた。
 同行は女中一人。今から思へば実に悪運命の始まりであつた。麓の村へ着いて頼んだ案内者は僕等がその山荘に一夏を過ごすと聞いて非常に恐怖の表情をした。そしてよした方が好いとすゝめた。何でもその賊は一種異つた人間で強奪を行ふ時必ず人を殺す、その方法は常に同一で鋭利な短刀で心臓を見事に刺してある、だから未だ曽て一人でも実際に賊を見たと云ふ者がない。見た者は必ず殺されるからである。故にその頭領は『人殺しの行者』と呼ばれて居る……。
 かゝる話を聞いて僕の不安は更に募つた。しかしさて別荘に着いて見ると僕等はそんな不安をすつかり忘れ果てた程満足に感じた。

(三) 不可思議極まる石崖

 別荘は麓村から二里ばかり上つた所にある。深い谷に臨んだ崖の上に立つて居る、西洋建築で青く塗られた頑丈な家である。その二階から谷と共に向ひの山が真正面に見渡され実に絶景である。
前へ 次へ
全14ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
村山 槐多 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング