麓《ふもと》になっていたのです。
 突然ウーッ! と、地響きのするような猛烈な唸《うな》り声を立てて、小牛ほどもある真っ黒な猛犬に、襲い蒐《かか》られました。
「呀《あ》っ……コラ!」
 とびっくりして、私は、持っている岩躑躅を投げ付けました。敵対すると思ったのでしょう、犬は項《うなじ》の毛を逆立てて、眼を瞋《いか》らせて、いよいよ獰猛《どうもう》な唸りを立てて、飛びかかって来ます。まだ私は、こんな恐ろしい犬を見たことがありません。小刀を投げ付け、洋杖《ステッキ》で右に払い左に薙《な》いで、必死に禦《ふせ》ぎましたが、犬はヒラリヒラリと躍り越えて、私は顔色を失いました。この時ばかりは、駄目だ! と、観念したのです。と、その途端、
「ペリッ! ペリッや、どうしたの? ペリッ!」
 と優しい女の声がして、私の眼の前に、ついそこの岩陰から姿を現したのは、立派な白馬に跨《またが》った、洋装の若い女です。
「これ、ペリッ! もうわかったからいいのよ、咆《ほ》えるんじゃないといったら!」
 女主人の制止に、仕方がないと諦《あきら》めたように、犬はウウッーと喉音《こうおん》を立てながら、後退《あとずさ》りして行きました。が、驚破《すわ》といえばまだ躍り蒐《かか》らんばかりの、凄《すさ》まじい形相です。私はやっと吻《ほ》っとしましたが、こんなところで、こんな物凄《ものすご》い犬に襲われようとも思わなければ、馬に乗ったこんな綺麗《きれい》な女に出逢《であ》おうなぞとは、夢にも思いません。呆気《あっけ》に奪《と》られて私は洋杖《ステッキ》を振り上げたまま、夢に夢見る気持で、女の姿を見上げていたのです。
 しかも、見れば見るほど何という、美しい女でしょう。年頃はまだ十七、八、あるいは十八、九くらいかも知れません。ふさふさとした亜麻色の髪が、キラキラと陽《ひ》に輝いて、紛《まご》う方ない混血児《あいのこ》です。その髪を両耳|掻《か》き上げて、隆《たか》い鼻、不思議そうに私を見守っている、透き徹《とお》るような碧《あお》い眸《ひとみ》……真っ白なブラウスに、乳色の乗馬|洋袴《ズボン》を着けて、艶々《つやつや》した恰好《かっこう》のいい長靴を、鐙《あぶみ》に乗せています。
 そして、細い革鞭《かわむち》を持って、娘の方でも思いがけぬところへ現れた私の姿に、びっくりしているのです……手綱を絞られたその馬のまた、逞《たくま》しく大きくて、立派なこと! まったくこんなところでこういう人に出逢おうとは、夢にも思わぬことでした。昨日から山の中ばかり歩いて、人の姿というものを……いいえ、人の姿どころか! 人家一軒見当らないのです。山を降りて、豁然《かつぜん》として視野の開けた今でも、まだその辺見える限りは、ただ小高い丘や野草の咲き乱れた、高原ばかり! 断崖《だんがい》と見えて、もう海は見えませんが、ただ、荒涼として、落莫《らくばく》として、人家一軒眼に入らないのです。その荒涼|寂寞《せきばく》たる中へ、突然この犬や人が、現れようとは! 穴のあくほど人の顔を見守っていた後、
「これ、ペリッ」
 ともう一度振り返って、また咆えかかった犬を叱《しか》り付けました。
「貴方《あなた》は、どこへいらっしゃるの?」
 咎《とが》めるようにいった言葉は、立派な日本語です。
「僕は、小浜《おばま》へ行きたいんです……」
「小浜は、向うよ」
 と娘は、グルッと鞭で半円を描いて、指さしました。
「まだ六里もありますわ」
「六里?」
 と私は、途方に暮れました。
「じゃ、仕方がありません、どこかこの近所に……食事をさせて、休ませてくれるようなところは、ないでしょうか?」
「食事?」
 と、娘はびっくりしたように眼を瞠《みは》りました。
「村へ行けば、ないことはありませんけれど……でも、一番近い村だって、三里ぐらいはありますわ」
「三里……? まだ三里も?」
 といよいよ私は、途方に暮れました。
「ここは何というところですか?」
「東|水《みず》の尾《お》……水の尾村の東水の尾というところよ……でも、ここは、わたしの家があるだけよ。村のあるところは、もっとずっと向うですわ」
 鞭《むち》の指さしているのは、今私の降りて来た躑躅《つつじ》山の、もっとずっと左側の、雑木林の奥の方! ここが一番近くて、それすら三里離れているというのです。そして小浜は、遥《はる》か左手の霞《かす》んだ、海岸線の北の方! この疲れと饑《う》えの足で、まだ六里では私は落胆《がっかり》しました。もう足が意地にも、進まないのです。が、今来た道をその水の尾という村へ戻る気には、どうしてもなれません。
 ここから四里ばかり離れて、小浜の町へ行く途中に、大野木という村があると聞いて、私は歩き出しました。その大野木まで行けば、小浜行きの乗合《バス》が出るということですし……仕方がない、草臥《くたび》れても饑《ひも》じくても、大野木まで行くほかはないのです。
 艾《よもぎ》や芒《すすき》を分けて、私の歩いて行く後方《うしろ》から娘はゆったりゆったりと、馬を打たせて来るのです。まだ時々、胡散《うさん》臭そうに唸《うな》っている犬を制止しているようでしたが、どんなに美しくても、珍しい混血児《あいのこ》でも、こんなに落胆した気持の時では、もう何の興味でも好奇心でもありません。夢見心地でぼんやりと私は、肉刺《まめ》のできた足を引き摺《ず》っていましたが、その姿が哀れだったのかも知れません。
「どこからいらしたの?」
 と背後《うしろ》から声をかけられました。
「あの山の向うから、来たんです」
 と、私は山を指さして、また歩き出しました。しばらく馬の跫音《あしおと》が続いていました。
「じゃ、豊沢の方から……?」
 ややあって、また聞こえてきました。
「そんなところ、僕、知りません。僕は雲仙《うんぜん》から来たんです。南有馬へ出るつもりで、道を間違えて……」
「まあ、雲仙から?」
「道を間違えて、面倒臭いから小浜へ出ようと思ったら、また間違えて、昨夜《ゆうべ》は野宿しちまったんです」
 ぼんやりと俯《うつむ》いて歩いていましたから、もう、娘が何を聞いたかを、覚えておりません。歩いていたら、娘がまた、呼んでいるのです。
「そっちへ行くと、違うわよ! ……こっちの方、こっちの方!」
 いうことが飲み込めなくて、立ち停まって顔を眺《なが》めていたら、
「じゃ、家へ寄って、休んでらっしゃるといいわ……パパに、そういいますから」
 娘の家は、その辺から曲るのか、大分離れた草原の中に馬を立てて、こっちを眺めているのです。私もぼんやりと、娘の姿を眺め返していました。あんまり草臥《くたび》れて、ガッカリした時には、急に礼なぞは出てこないのかも知れません。
「わたしの家へお寄りになるんなら、こっちよ」
 そういうわけで私は、碌々《ろくろく》礼もいわずに、この娘の後に跟《つ》いていったのです。

      二

 今度は娘の後からついて行きますと、草むら隠れに小径《こみち》がうねうねと、そのうちに山に囲まれたこんな無人の地帯には珍しい、白砂利の陽《ひ》に燦《きら》めいたまるで都会のような道路へ、出て来ました。
 そして、どこからその道が曲ったのか? いつか、御影石《みかげいし》を敷き詰めて枝も撓《たわ》わに、五月躑躅《さつきつつじ》の両側に咲き乱れた、広い道路を上った小高い丘の中腹には、緑の山々を背景にした立派な家が、聳《そび》え立っているのです。豪壮というよりも、瀟洒《しょうしゃ》といった方が、いいかも知れません。
 大きな門柱から鉄柵《てつさく》が蜿蜒《えんえん》と列《つら》なって、その柵の間から見えるゆるやかな斜面《スロープ》の庭には遥《はる》かの麓《ふもと》まで一面の緑の芝生の処々に、血のように真赤《まっか》な躑躅《つつじ》や五月《さつき》が、今を盛りと咲き誇っています。眼も絢《あや》な芝生の向うには、滴《したた》らんばかりの緑の林が蓊鬱《こんもり》と縁どって、まるで西洋の絵でも眺《なが》めているような景色でした。家の右手の方もまた、一面の芝生に掩《おお》われて、処々に蔓薔薇《つるばら》の絡みついた白ペンキ塗りのアーチや垣根が設けられて、ここにも白やピンク、乳白、紅、とりどりの花が一杯に乱れています。
 その間に、新築間もないらしい日本家屋と白壁作りの異国風な情緒を漂わせて、洋館が聳《そび》えているのです。私は狐《きつね》につままれたような気持で、突っ立っていました。藁葺《わらぶ》き屋根の農家でも、あろうことか! この山の中に……近い村まで三里もあるという、この人っ子一人姿を見せぬ淋《さび》しい山の中に、この美しい庭や清々《すがすが》しい家屋とは! 東京の町の中にもこれほどの美しい住居《すまい》は、滅多にありますまい。呆気《あっけ》に奪《と》られて私は、眺めていました。
 娘は門前で馬を降りて、出て来た農夫|体《てい》の五十ぐらいのオヤジに手綱を渡すと、そのまま右手のアーチを潜《くぐ》って、私を導き入れました。よほどの花好きとみえて、芝生の間にも幾つかの花壇があって、紅、白、銅、レモン、黄、ありとあらゆる大輪の薔薇《ばら》が、眼も醒《さ》めんばかりにあざやかな色を見せています。
 このアーチを潜った奥が、初めて広々としたテラスになって、籐椅子《とういす》の三、四脚が取り囲んだ向うに、五十七、八とも思われる洋服のデップリとした紳士が、怪訝《けげん》そうな面持《おももち》でじっとこちらに、眼を留めているのです。と、娘はいきなり高い混凝土《コンクリート》の床に駈け上って行って、紳士の首へ手を回して、何か小声で話しています。紳士が可愛《かわい》げに頷《うなず》きながら、私の方を眺めています。
 そして、娘が話し終って傍らを離れていると、
「さ、おはいりなさい!」
 とアーチのところに佇《たたず》んでいる私を、麾《さしまね》きました。初めてテラスに上っていって、私はこの紳士に挨拶《あいさつ》をしたのです。
「道にお迷いになったとか! 娘がお役に立って何よりでした。よろしかったら、どうぞ、ごゆっくり、お休みになって……さ、おかけ下さい」
 立派な日本人ですが、さすがに混血児《あいのこ》の父親だけあって、海外生活でも送った人らしく人を逸《そら》さぬゆったりとした応対でした。この山の中に住みながら、紳士は血色のいい赭《あか》ら顔で、半白の頭髪をキチンと梳《くしけず》って、上衣《うわぎ》は着けていませんが、ネクタイにスエターを纏《まと》っているのです。赤革の靴といい……この人気《ひとけ》のない山の中に、誰が一体、来る人があるのでしょうか? 娘といい父親といい、身嗜《みだしな》みの正しさには、驚かずにはいられません。そこにかけて、問われるままに昨日|雲仙《うんぜん》を出て、南有馬へ行くのに道に迷い、小浜《おばま》へ行くにもまた北の道を取り損って、山を降りたところで偶然娘さんに出逢《であ》ったこと、連れられてここへ来たことなぞを、話したのです。
「貴方《あなた》の、越えておいでになった山は」
 と紳士は、肥《ふと》った煙管《パイプ》の手を挙げて、例の犬に咆《ほ》えられた山を、指さしました。
「この辺では、周防山《すおうやま》と呼んでいます」
 紳士の問いに答えて、初めの予定では南有馬から、島原鉄道で口の津へ出て、口の津から小浜までは海岸美がすばらしいと聞いていることから、ここを歩いて小浜から乗合《バス》で諫早《いさはや》へ出て、帰京するつもりだったということなぞ……。
「ほう、貴方は東京にお住いですか」
 と、いうことから今|麹町《こうじまち》の番丁《ばんちょう》に住んで、大学の医学部へいっていること、そしてパンフレットを見ているうちに、無性に旅へ出たくなって、ここまで出て来たというような話になってきたのです。
「わたしはまだ、東京は一度も行ったことがないが……さぞ、賑《にぎ》やかでしょうな? そんな賑やかな都会からおいでになったら、随分|淋《さび》しい
前へ 次へ
全20ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
橘 外男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング